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2006年11月の7件の記事

2006年11月29日 (水)

今すぐできる‘簡単な’こと マニラ事務所ルールについて

11月3日に会社の駐在員事務所を移転したことに鑑み、事務所のルールというものを作ってみました。

○○○ Office Rules

1. Smile Always

2. Love and Respect Each Other

3. We are on behalf of ○○○,Japan

たったこれだけです^^!

最近、もとより営業というサービス業をやっているためか、やっぱり人間は愛嬌がないといけないと思いました。確かに忙しかったり、嫌なこともあるけど、「1.いつも微笑を」。

2つめはフィリピン人の友達の受け売りです。結婚には、「互いの愛と尊敬」が必要。まあ、会社なので、‘愛’でなくて、他の単語でもよいのですが、いわんとせんその心はひとつなので、LoveでOKって感じです。こちらは、キリスト教国でもあるので、Loveって、大文字のThe Loveでもあるのですよね。つまり神の愛、神への愛ということなので、わかりやすい概念だと思います。

最後は、例えフィリピン人のスタッフでも、日本の会社の代表であるということを自覚させる。ちなみに、私のところは、日本人ひとり(私)とフィリピン人の総務の女性スタッフとドライバーしかいませんので、私を筆頭に、日本の会社の代表として振舞わなければなりません。

簡単そうなことですが、あんがい難しそうでもあるし。まあ、できるところから始めましょうってところです^^!

ではでは。

2006年11月26日 (日)

いじめられている・いじめている仲間に(その2-3)

<非対称性の世界に生きざるを得ない私たち>


ともあれ、結論として、私は、「いじめ」も「貧困」も絶対にこの世からなくならない。人間以外の自然界はさておき、この世の中の人間が、完全なクローンやコピーで無い限り、すなわち一人一人が異なった存在である限り、「ラベル」による比較やその序列化による差別は、絶対になくなりえないのです。そういう意味で言えば、「いじめ」も「貧困」もそもそも相対的なものでしかない。前提条件を、クリアしてしまえば、全く別の序列ができてしまうということなのです。

私は、「貧困」や「差別」の問題を、かれこれ中学生の頃から、ずっと考えつづけてきました。ざっと20年以上になります。まだ36歳の若者が何をいうかという方がいるかもしれませんが、私は、今後、世界がどう変わっていこうとも、やはり、今の時点では、「貧困」、「いじめ」はどう楽観的に考えても、人間の力では解決できるとは思えません。

ただし、例外的に、今までの世の中で、この序列化、差別の問題を超越してしまった文明があることも事実です。

たとえば、イスラームの「神の前での(人間の)平等」という考え方があります。「人間は神の奴隷である」という考え方。この‘奴隷’(アブド('bd)というアラビア語。この外国語の概念を正確に理解することはとても難しいことで、日本語でいう‘奴隷’とはちょっとニュアンスが違うような気がします。

ちょっと脱線しましたが、人間以上の‘絶対者’(例えばそれが‘神’であったりするのですが)を置かない限り、人間(民族、個人間を問わず)の間での序列化は避けれない。これとて、‘神ではない’という意味での‘平等’でしかないのです。

つまり、結論として、われわれは必然的に「非対称」の世界に生きざるを得ない。であるならば、その「非対称」を成り立たせている「定義=ラベル」を適宜、貼り替えてゆく知恵と勇気をもたなければならない。

もし、学問が人類に貢献できるとしたら、この人間世界、地球の生命世界を、読み替えていくための引き出し(ディスプリン)を磨き続けること、そして、18世紀のニュートン力学以来の、現在主流とされている「資本主義」・「西欧近代モデル」の「パラダイム」そのものを組み替えていく、それこそが‘現代に生きる’「学問」の存在価値だと思います。

いじめっ子と、いじめられっ子、そして今でもいじめを止められない大人たちに言います。

「いじめ」はこの100年、200年ではなくなりません。世界中には、それこそ数え切れない価値観があります。極論すれば、あなた自体が、あなたにとっての「価値観そのもの」なのです。自分に自信をもってください。いじめっこの価値観(態度)は、違う「価値観」なのだから仕方がないとあきらめなさい。

でも、対話できるのでしたら、いじめっ子と話し合ってください。違ったもの(価値観)がぶつかり合ったところから、新しいもの(価値観)が生まれるのです。あなた(いじめられっ子)にとっても彼・彼女(いじめっ子)にとっても、この出会い(いじめの現場)は、もしかしたら、新しい世界へ、双方を引っ張り上げてくれる、新たな価値観を創造するチャンスなのかもしれないのです。

「彼(彼女)もあなたも違う。でも何か共感できること・共同できることが、ほんの‘少しだけでも’あるのかもしれない。」

そう思ってください。そして、共によりよき世界を目指して、明日を信じて今日を生きていきましょう。

なぜかって、たまたま同じ地球に生まれあわせた「仲間」だからです^^?


ではでは。

いじめられている・いじめている仲間に(その2-2)

<「人類はみな兄弟」なのか? この言葉の意味すること>


ここで、例えとして世間に流布しているこの言葉を取り上げたいと思います。「いじめ」や「貧困」に関わらず、全ての社会的問題に対して‘万能’の一種おまじないみたいなスローガンですね。多分、日本人の大多数の人が、聞いた覚えがあるでしょう。

「‘人類、みな兄弟だから’、いじめをやめなくてはならない。」、「‘~だから’「開発」を推進するのは人間として当然の努めだ」などなど、このての言説のいかに多いことか。

私の不満は、この言葉がイージーに使いまわされていませんか、むしろ逆に、この言葉の中にこそ、‘本当の問題’が隠されているのではないかということなのです。

まず、「兄弟」という言葉を読み解くと、これは人間社会、生物一般かもしれませんが、‘父’と‘母’がいて‘子供’がいる。例えば一卵性双生児だとしても兄(姉)弟(妹)の区別が便宜上でも現実としてもあります。ここで考えて欲しいことは、例えば、「世界人類、みな兄弟」と叫ぶとき、そこには暗黙の了解として「父」、「母」がいて、子供がいる。子供には序列がある。ということです。

ちょっと、歴史のおさらいをさせてください。植民地主義者というか西欧人が奴隷制や帝国主義、植民地という概念を、あたかも「正しい」こととして権威づけるのに使ったロジックが、まさにこの言葉なのです。

西欧人の解釈を、わたしなりに類推して日本語にすると、「父=神(キリスト教ではジーザス)のもとに、兄(先進国のCivilized People)と弟(植民地の人たち)がおり、兄弟のお兄さんは、文明(科学やキリスト教など)の力で、弟を開明・啓蒙して、正しい人間としての道(父の説く道=キリスト教)に導かなければならない」。

私流に解釈すると、それが、お兄さんである先進国人のモラリストである宣教師や植民地経営の役人(貴族など特権階級も含まれます)が、‘人間’としてやるべき「この世で一番崇高で正しいこと」なのです。

でも、今の時代の尺度では、なんだこれはという感じですよね。単なる独り善がりの、ちょっと学問的に言えば、「オリエンタリズム」の極地ではないか、「偏見」そのものではないかと思いますよね。

しかしながら、「オリエンタリズム」や「偏見」の問題は、ちょっと置いておいても、純粋に、言葉として考えると、私は、これは「世界観」としては間違っていない、‘正しい現状認識’であるといわざると得ないのです。

そもそも、この世界は、平等でもなんでもないのです。似たような世間に流布しているスローガンに、「人間は(全て)平等である」という言葉がありますが、この言葉の方は、前者(人類、みな兄弟)に較べて、極端に汎用性が狭いです。

つまり、かなりの前提条件を補わなくては‘言葉=スローガン’としてなりたちません。例えば、「機会の平等」とか、人間世界の限られた局面において、「平等である」‘べきだ’といっているだけであって、これだけでは意味をなさないのです。

しかしながら、「人類、みな兄弟」には、真理が含まれています。つまり人間が一人一人、生まれも育ちも違うように、世界(地球上)といってもよいのですが、地球上の個体には、億や兆、もう誰も数え切れないと思うのですが生命個体には一個として同じものはないといわれています。(誰もそれを証明していないと思いますが)

この複雑極まりない世界を人間が認識しようとする際に、ラベル(もっと平たく言うと名前)をつけて、それになんからの秩序(序列)をつけて分類・序列化するのは、特に近代ヨーロッパではやったのですが、世界認識の一つの手段であり、‘合理的’に世界を考えようとする近代人にとってはそれほど無理のない考え方であり、しかもそれなりに妥当的な考え方(世界観)でもあります。

しかしながら、それは、既に‘あるもの’の‘並べ方’のみを問題にしているところに限界があります。

つまり、‘あるもの’の並べ方を語ることは‘(名前の)ないもの=無’について語ることにはならないのです。そこにラベリング理論の限界があります。

また、私たちが、自然、例えば綺麗な花や鳥や動物、昆虫でも何でもいいのですが、その美しさに歓喜の息をのむとき、多分、あなたは人間以上のものの存在をも感じていると思います。私は仏教徒で、別に怪しげな宗教の回し者でもなんでもないのですが、本当に素晴らしい自然にであったとき、私は、いつも「絶対に人間では、これは作れないよな」と心でつぶやきます。

いくら人間の芸術や技術が素晴らしいといっても、その色彩、材質、構造どれをとっても自然の創造物には絶対に勝ち得ないのです。音楽や絵画などの芸術は、自然とは別の次元で素晴らしいではないかと反論する人がいると思いますが、それは、人間の心に訴えかける別チャンネルを使っているだけで、それとて、無から生み出されたものはありません。

画材、楽器、インスピレーションの源泉、全てをとっても世界=地球とのかかわりあいから生み出されたものを、有機的に‘組み合わせて’使っているだけなのです。その意味では、人間は、‘無’からは何も生み出すことができないのです。

(続く)

いじめられている・いじめている仲間に(その2-1)

いじめられている・いじめている仲間たちに (2)

~非対称性の世の中を生きる~
「いじめ」問題を「貧困」と絡めて読み解く。


いじめの問題を、しばやん流に世界の貧困問題、開発問題と絡めて読み解きたい。

今、朝日新聞をはじめ、さまざまなマスコミで「いじめられているあなたへ」という形で地道に毎日しつこいぐらい取り上げられている。インターネットの世界でもしかりだ。

それらのメッセージは、「今はつらいかもしれないけど死なないで」、「辛ければ逃げなさい」、「いじめている子もかわいそうなんだ。いじめている子も後で後悔するからそんなことをやめさない」、「いじめられてる子やいじめている子だけが問題ではない。まわりで傍観している友達が悪いんだ」、さらには、親が悪い、教師が悪い、さらには近所が悪い、社会が悪いという何か戦犯探しに走ったり、精神訓話に走ったり。

だが、ちょっと待てや!誰も「いじめ」そもものの本質に関わる議論をしていないやんけ!というのが、ちょっと日本を離れてフィリピンからこの現象をみている私の言い分である。

つまり、一言で言うと本質の議論を誰も(ちょっと言いすぎだが)していないように見受けられるのだが、いかがなものであろうか。

結論から言う。「いじめはなくならない。それをあるものとして、それぞれ個人で乗り越える、昇華していくしかない。これはいじめっ子もいじめられっこについてもいえること。」としか、私には言えない。

そのようにしばやんが考えるに至った経緯と理由を述べる。

私は、先に書いたようにいじめられっこだった。ちいさな仲間にはっきり言う。いじめは小学校や中学、高校さらには大学、社会人=大人になってからも、人が人として生きていく限り、一生付きまとうものなのです。

自分でも気がつかないうちに、人を傷つけていたり、人の何気ない一言や仕草に傷ついたり、これは意図的にいじめてやろうとかいう意思とが、その人をターゲットにしているとかに関係なく日常的に起こっているいることなのです。

この数年、文部科学省が、「生きる力をつける」といっていますが、まさにちゃんと生きる力を正しく教えていれば、これほどいじめが問題になることはないのです。短絡的な言い方かもしれませんが、これほど複雑で人の顔のみえない日本の社会では、「生きる力=いじめを生き抜く力」といってもよいのではないのではと思います。少なくも、その「生きる力」のうちの一つに、「いじめを生き抜く力」が入ることに異論をはさむ人はいないでしょう。

さて、私の専門である「開発」の世界の問題に絡めて説明しますと、例えば「貧困」の問題を対照例としてみましょう。

「貧困」には、「絶対的貧困」と「相対的貧困」があるとは、どの開発学、経済学、福祉学の教科書にも最初に書かれていることです。しかしながら、開発の現場を10数年(まだまだ駆け出し!)やっていると、ちょっと違うのではないかという気がしてならないのです。確かに、アマンティア・センの「権限アプローチ」やセン+緒方貞子現国際協力機構の「人間の安全保障」アプローチ、ロバート・チェンバースの「PRA,PLA」などでも、「貧困」はまさに中心課題であり、それぞれが、この「貧困」を定義し「解消の処方箋」を描き出そうとしています。

しかしながら、われわれがさらに本質に立ち返ろうとすると、「果たして貧困とは悪いことなのか。解消しなければならないものなのか」という子供のような無邪気な質問に戻る必要があると思います。

(この稿、続く)

2006年11月20日 (月)

いじめでつらい思いをしている仲間たちに(その1)

たった今現在、いじめでつらい思いをしているであろう日本の若い仲間たちに、フィリピンからメッセージを送らせていただきます。

ちょっとだけ、みなさんより年上のしばやんお兄さん(おじさん?)も、小学校中学校、特に小学校の低学年のときは、どちらかというといじめられっこでした。小学校1年生からメガネをかけていて、運動音痴でドンくさくて、今でもソフトとかバスケットとか、バレーボールとか団体球技は全然できません。メガネのため(だけでもないのですが)いろいろからかわれたり、運動で力いっぱい活動できず、悔しい思いをしました。

ただ、自分の救いは、みんなよりちょっと勉強が好きだったこと。運動ができないというコンプレックスを勉強で取り返したのはいいんだけど、逆に小学校の上級生の頃には、先生もコ憎たらしく思うような典型的なガリ勉でいい子になってしまっていました。

中学校のころ、国語の担当をしていただいていた教頭先生が、たまたま授業で、「○○(しばやんのこと)、今日、クラスの誰それはどうしているんだ」と話を振られて答えられなかったことを思い出します。彼は実は休んでいたのですが、私はそれを知らなかったし、その理由も知ろうとしていなかったのです。つまり先生は、自分のことだけを考えるのではなく、クラスのみんなのことも考えないといけないよ。といわれたのだと今になって思います。

いじめっ子にも、いじめられっ子にも言いたいんだけど、必ずしもいじめられっ子が人の心のわかるいい人間になるとは限りません。その力関係は、本当に立場や評価の尺度が違うだけで、ころころ変わってしまうものなのです。例えば僕は、いじめられたうっぷんを勉強という面で、いじめっ子に仕返しをしていたようなところもあります。正直言って。例えば先生の質問に答えられなくて困っているいいじめっ子に対して、さらに困らせたりけなすような質問をしたりとか。本当に、いやなやつですよね^^?

ともあれ、いろいろ生きていくうちで、やっぱり、よいことも悪いことも、つらいことも悲しいときもたくさんたくさんあります。でも、ちょっとだけでも、あーやっぱり生きていてよかった。がんがってよかったと思える嬉しいときや、心から感動することも、ほんのたまたまかも知れませんがあります。きっとあなたも今まで一度以上は経験していることでしょう。

今は、つらいかもしれませんけど、あなたを待っている必要としている人たちが、この世界中に、60億人以上いること、日本だけでも12億人以上いることを、決して忘れてはいけません。例えば、あなたをいじめるいじめっ子が5人いるとすると、こういうことになります。

5/6,000,000,000人(世界の場合)、5/120,000,000人 (日本の場合)

とても簡単な分数だと思うのですが、この意味がわかりますか。5が10人でも、仮に100人でも’数字的にみれば’実はたいした違いではありません。具体的ないじめっ子の彼・彼女=人間が数字ではないことは十分わかっていますが例えとして読み進んでください。

少なくともあなたが心を開いている限り、5,999,999,995人はあなたの味方になってくれる可能性のある人たちです。(生まれたばかりの赤ちゃんやおじいちゃんおばあちゃんも入っていますが、友達に年齢は関係ないですよね^^?)

ところで中学校の頃から世界、海外にあこがれていたしばやんお兄さんは、大学でアラビア語とイスラームを学びました。イスラーム教徒は世界中で約19億人いるといわれています。つまり世界の3人に1人の隣人とお付き合いする鍵を手にいれたことになります。

そして今、開発援助の世界で働いています。お兄さんは、研究者でもなく、行政官でもなく普通の民間会社の開発コンサルタント、特に、農業や水資源開発、地域開発を専門とする会社で多くのエンジニアの方やコンサルタントの、いわば実務家の人たちの一員として働いています。

仕事の中で、中近東やアフリカ、最近は東南アジアの多くの国を訪問して、相手国政府の役人のひとや市井つまり町にすむひとや村に住む人たちと一緒に、彼らの開発の行く末、いわば彼らの夢を共に語り合ってきました。

ご存知のとおり、世界の5分の4の地域が、開発途上国とかいわれるいわゆる‘貧しい’国とされています。しかしながら、私が歩いてみてきたのは決して貧しいだけではない普通の友達=同じく地球に生をうけいろいろ悩み傷つき、辛い思いをしながらも家族を大切にし、どんなつらいときでも笑顔と歌と踊りを決して忘れない普通の人たちばかりでした。

特に、貧しい国では、ちいさな仲間たちは、小学校にもいけず、子守りをしたり大人と同じく力仕事をしたり、みながみな生きることに必死です。お兄さんは、紛争直後の国、たとえばエリトリアや東ティモールという国でも働きました。彼ら、内戦があった地域では、家族も離散、最悪では身内を目の前で殺されて、本当に生死のふちを彷徨ってきた人たちが本当にごまんといます。

実際に自分の生命が危険に毎日毎日さらされているあなたと同じくらいの年齢の仲間が、今日のこの時間に、何人、何万人いるのか、あなたは考えたことがありますか。

自殺ではなくて、実際に怖いお兄さん、みえない空から降ってくる爆弾や家の周りに周到に仕掛けられた地雷を、いつもいつもびくびくして、それでも毎日生きていかなくてはならない人が、現実に、何百人も何千人もいるのです。彼らは、今日を生き延びるので精いっぱいでとても自殺を考える余裕はないと思います。少しでもよい未来に、少しでも幸せがあるであろう未来を信じて、毎日、必死にがんばっているのです。

あなたの悩みや辛さが、彼らとくらべて劣っているとか価値がないという気は全くありません。でも、ちょっと立ち止まってください。あなたも、あなたをいじめるいじめっ子も、もっともっと考えたり勉強すべきことがあるのではないかということを。

世の中、難しいことばかりで、自分なんていてもいなくてもどうでもいいやと感じることがあるかもしれません。

でも、あなたの力を必要としているあなたを待っている仲間が世界には、60億人マイナス数人いるのです。少なくとも、わたしは、あなたといつの日か一緒に話したり仕事をできることを心から待ちわびています。

もし、しばやんの仕事や考えに興味をもたれましたら、ぜひ、わたしのホームページを訪れてください。一緒に、世界を考える、あなたの知らない世界への鍵を、‘ただ’で渡してあげましょう^^! ‘ただ’ほど高いものはないということわざも、老婆心ながら付け加えておきます。あくまで、批判的に、私の話を聞いてください。決して丸呑みしないように!

最後に、あなたの生まれたのは単なる偶然ではないことを付け加えておきます。あなたが今、地球に立っているのはお父さんお母さんが天文学的な数字で出会って愛し合って、本当に奇跡のようにあなたが生まれたのです。つまりあなたがこの世にいるには必然であったといえます。

世界には、日本でもそうですが、本当にたかだか70年や80年の寿命では味わいきれないほどの、あなたを心底から感動させるような素晴らしい事、素敵な事、美しいことなどが、たくさんたくさんあります。

せっかく、今生きているのだから、それを知らずに自分で自分を殺してしまうのは、後悔しきれないというか、本当にもったいないとは思いませんか。

今はとてもとてもつらいと思うけど、顔を上げて、一緒に歩いてみませんか。


しばやん@マニラ・フィリピン国 (36歳)

2006年11月15日 (水)

『遥かなる人』の声

なぜか閉塞感を感じる今日日(きょうび)のニュースをみていて(特に、いじめ自殺の問題とか安部新首相の答弁とか)、ふと以下の歌詞が頭に浮かびました。


「夕暮れの空まで 真っ直ぐに 駆けてきた

広げた本は 机に置いたまま

流れる雲に 憧れを語れば

遥かなる人の声が届く

本など広げて 言葉を探すより

人は空を見上げているほうが

ずっと 賢くなれるんだ

遥かなる人の 声が僕に届く」

(以上 一番の歌詞全体) 

海援隊(作詞 武田鉄矢 作曲 中牟田俊男) 『遥かなる人』 より。

ところで、この遥かなる人とは、坂本竜馬のことだそうです。武田鉄矢は、知るひとぞ知る坂本竜馬フリークなんですよね。ドラマに主演しているし、マンガの原作をしたり、実は「海援隊」というバンド名自体が、竜馬が作った海運会社(商社?)の名前です。

私は、直接、海援隊を同時代で知っていたわけではないのですが、大学の寮の隣の友達が九州の福岡出身で、まさに彼の影響で、なぜかカセットとかCDを数枚持っています^^?

ところで、似たような言葉として、以下の言葉を思い出しました。

「本を捨てて町にでよう」 寺山修司

「書を持って街へ出よう」 佐藤郁哉 (社会学系のフィールドワークの入門書として名高い、『フィールドワーク』 新曜社 1992 のサブタイトル)

「本を置いて 空を見上げよう」 坂本竜馬(武田鉄矢)? ← これじゃ、まるで、シャラン九の「空をみなよ」と同レベルだ。

まあ、いずれも現場志向の人の掛け声(キーワード)ということにしておきましょう^^?

蛇足ながら、以前も紹介しましたが、『遥かなる人』の最終章にはこうあります。

「旅行く者達が 美しく見えるのは
もっと遠くを 目指しているからだ
立っているより 歩いてみることだ
遥かなる人の 声が僕に届く」

やはり、こちらのフレーズの方がしっくりきますね。でも、本を置いてというフレーズも、やっぱりいいと思います。

ではでは^^!

2006年11月12日 (日)

誰のための旗? 国旗を掲げるということ。

今日、Flags of our Fathers - Every Soldier stands beside a Hero - Clint East wood 監督をみてきました。

フィリピンに滞在していて嬉しいことの一つが、映画が非常に安く鑑賞できること。これはあくまでも外国人の私たちにとってという意味ですが、街中の映画館で、100ペソちょっと、指定席でも200ペソかからない(日本円に換算するときは、ラフに2倍にしてください)ということ、フィリピンの映画産業もそれなりに盛んなのですが、洋画(アメリカの大手映画配給会社がさすがに多いですが)が、リアルタイムで、ぼんぼん封切られている状況というのは映画好きにはたまらない環境といえましょう。(封切られる映画の件数が、日本に較べてあまりに多いため、日本では話題のロングランとなるような映画も、2週間あまりでロードショーが終わってしまうことが多いことは、その反面、残念なことですが)

さて、この映画は、1944年、太平洋対戦末期のアメリカの硫黄島への攻撃と、そのときの硫黄島の山頂に立てられた星条旗をめぐる話で、当時、フロッグを山頂に立てたとされる若い6名の兵士たちのアメリカ本国での戦争ヒーローとしての歓待というかアメリカ市民の熱狂振りと、兵士の回想の形で示される実際の戦闘の激しさのギャップ、そして戦争が終わった後の、ヒーローたちの足跡が、一人の兵士の息子の取材活動という形で丹念に描かれます。

非常に、重たいテーマの映画ではありますが、まずなによりも、このような映画を撮影して公開してしまうというアメリカの懐の深さに感心します。(ワーナーブラザーズが配給)

ところで、このような戦争回想ものの映画は、かなり政治的な意図というか、その時代の空気を反映して作られるのが常ですが、この映画には、確かにイラク戦争を戦っているアメリカの時代を反映しているといっても、微妙に肩透かしをしているというか、この監督は非常な確信犯だと思います。つまり、アメリカの立場を反映していないというか、決してプロパガンダ映画ではない、観るもの全てに、いろいろなことを考えされる作品だと思います。

最近、日本でも話題になった『ワールドトレードセンター』を観てきたので、それと絡めてこの映画について書こうと思ったのですが、やはりそれはやめておきます。セプテンバー11(2001年9月11日)と、この映画を併せて語ることは、かなりの曲解をしようとしているというか、危険な気がしたからです。

「ワールドトレードセンター」の感想は、別途のべるとして、この2つの作品の共通点として、なるべく事実(と思われること)を淡々と語ろうとしている点、つまり事実の重大さをそのまま観るものにぶつけるという、いわばドキュメンタリーのような手法なのですが、ステレオタイプな単純な解釈を押し付けるという今までのメディアのあり方と一線を画している点に、共感を覚えます。

英語の映画がアメリカとリアルタイムで観れるという恩恵はあるのですが、いかんせん字幕も何もなしで英語だけで話の筋を追わなくてはならないので、解説本や映画のパンフレット、字幕がある日本で同じものを観た時と、同等以上の理解を得ているかという点については、私の英語力から、若干、差し引かなければならないかもしれませんが、この2つのドキュメンタリータッチの映画、私は、非常に興味深く鑑賞しました。

最後に、この映画について、蛇足ながら2点、コメントします。

1.アメリカ軍が太平洋の覇権を日本から取り戻すためにめちゃくちゃな砲火と兵隊を投じて、硫黄島を奪回したわけですが、この戦で、日本人は全滅しているという事実。当然、この島にも当然、住み着いていた原住民がいたと思われますが、日本とアメリカの兵隊以外の人間に全く触れていない。

戦争は、一般の民衆と全く関係ない次元で行われていると簡単に一般化するつもりはありませんが、他のアメリカの第二次世界大戦にふれた映画にしても、兵隊内のドラマを描いたものは多くても、一般民衆、特に占領下にある原住民は、背景というかお飾り扱いで彼らが主人公の映画は非常に限られています。具体例は特にあげませんが、ぜひ、戦争映画の‘名作’といわれている今までの作品をその視点で見直してみてください。

2.アメリカ軍は日本軍を壊滅するために、大量の兵器(この映画では、ライフル、自動小銃、地雷、戦闘機、軍艦からの砲撃など火器が多いのですが)と兵隊(まさに歩兵の白昼線です)を投入して、硫黄島の本来の地面がわからなくなるほどのめちゃくちゃな破壊を行っていますが、塹壕に隠れた日本人に対して行った「火炎放射器」、この非道さは絶対に黙視できません。ガスバーナーで、全てを焼き払おうとするその発想、映画でも火炎放射をされて焼け死ぬまでもがき苦しむ日本人?がでてきますが、アメリカの兵隊というより、そのような兵器を平気で生み出し、さらにそれを採用する軍隊という組織、さらに言えば、多量の兵器を、敵味方なく売りつけ大もうけしている‘死の商人’達に対して、非常な憤りとやりきれなさを感じます。

‘死の商人’については、以前も触れたことがあり、今後もしつこく取り上げていきたいと思いますが、開発で貧困と闘う以上に、特に先進国の‘死の商人’と闘うことは、それ以上に重要であるということを私は世界に訴えていきたいと思います。

ともあれ、今日はこのへんで^^?

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フィリピン・ファン