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2007年1月17日 (水)

冬が来る前に(その2) ダーウィンの悪夢をみて

ブログ仲間のaxbxcxさんの以前のブログ(10月か11月か)をみて日本公開以前から注目していた映画「ダーウィンの悪夢」を、日本に一時帰国した当日、12月24日(日)に東京のシネマ・ライズまで早速見に行ってきました。午後4時に成田に到着して、午後7時30分の渋谷のナイトショーに駆けつける、フットワークだけはよいしばやんの本領発揮です。

さて、いろいろ言いたいことは沢山あるのですが、あえて2点に絞ります。

ナイルピーチを輸送する貨物飛行機の東ヨーロッパ出身のパイロットのセルゲイが語る言葉、「俺は友達から言われたんだ。(アフリカの)アンゴラの子供はクリスマスのプレゼントとして、タンク(戦車)や銃をもらうのに、(アンゴラに武器を輸送した後に、南アフリカのヨハネスブルクでぶどうを荷物として積み込んでヨーロッパに戻るという仕事だったそうですが)、ヨーロッパの子供たちはぶどうをクリスマスプレゼントとしてもらう。そのことについて、自分も心が痛んでいないわけでないんだ」といったインタビューのコメントには、ちょっとぐっときましたが、それより気になったのは、ナイルパーチ工場の警備員の以下の言葉です。

「自分は、Civilian(市民)として文化的な生活を送っている。いろいろな問題があることを知らない(都市に集まってきた貧困層の貧困や搾取の現状:しばやん注)わけではないが、自分としては、‘市民’としての生活が捨てられないんだ。」この言葉の方が、わたし的には心に残りました。

これって、先進国の私たちの言葉そのものではないでしょうか。

‘市民(Civilian)’って一体何なの?。文明的な市民であることにどれほどの意味があるの?

はっきりいって、いろいろ衝撃的な映像ではありましたが、私の経験からは、ホリエモンのいう‘想定内’の話でした。日本ではシネマライズというチョーマイナーなミニシアターで上映するのにも関わらず、実に様々なメディア(テレビは知りませんが、しばやんがたまたまみた新聞、雑誌だけでも、5誌ではくだらないでしょう。)で様々な識者がコメントしているようですが、この映画の内容自体には、それほど衝撃を受けませんでした。

映画のパンフレットで、監督がこの映画によって上映国(特にヨーロッパの先進国)で、ナイルピーチの不買運動とか社会問題となったことに関して、「不買運動をするだけでは、どうにもならないんだ」ということを訴えていますが、実はこのようなことは日本でも25年前にありました。

若い人は知らないと思いますが、‘歩く仲間’の大先輩、鶴見良行さんが、「バナナと日本人」という岩波新書を1982年に著したときに、日本の‘良心的な’人たちによってバナナの不買運動みたいなことが起こったわけです。このときに、鶴見氏自身は、「バナナの不買運動」では、本当に不平等な社会をかえるにいたらないことに気がついて、逆にそのような‘単純な行動しか起こせない‘日本人に対して不満を述べています。彼が伝えたかったのは、そんな表層的な解決ではないと。(103頁、『東南アジアを知る』岩波新書 1995)

したがって、私はそれほどこの映画を評価しません。ある意味で‘想定内’の作品であったこと。‘グローバリゼーション’と‘死の商人’がつるんでいるのは当たり前のことというか資本主義の本髄は、`儲かるためには何をやってもよい’ということであることは、今までも私が何度も指摘してきたように、分かっている人には分かっているし、しばやんには、とっくにお見通しのことなのです。

‘常識’としてこの映画のレベルのことを知っておくのは悪いことではありません。ただ、これを教条的に解釈して正義感をかざして動く(行動)ことにはちょっと留保条件をつけたいと思います。この映画は途上国を扱っているようですが、実は先進国(欧米や日本も含めて)のあり方自体を問うています。

わたしは、この映画をみた若い人に問いたいです。

「このような問題を引き起こしたのは誰?‘グローバリゼーション’って一体、何?」

ちょっと話題が飛びますが、今、いろいろな開発学の教科書をみていて思うのは、‘推測’(それも自分の知覚の範囲内での)が多いことと、‘推測’があまりに三次元にとどまっていること、つまり時間軸を無視というか軽視した楽観論しか述べていないことに非常に不満を感じています。「俺が教科書を書いてやるわい」といいたいのもやまやまですが、とにかく歴史や地域特性に無神経な言説が多すぎます。また、あまりに視野が狭すぎる。

日本語の教科書に「~といわれている」と書いてあるくだりをみて、あなたはそれで本当によいと思っているのとつい問いかけたくなります。また、安易に、国際機関やNGO・NPOの活躍に期待する人がいますが、それに関しても私は疑問を感じます。

「みんなの問題は誰の問題でもない」という格言を知っていますか。「地球規模の問題(グローバルイシュー)」に頭を悩ます前に、自分のできる範囲で課題を解決してみろ、と思います。この映画もしかり、‘みんなの問題’だと騒いだり、悩む必要は全然ありません。これを自分なりに咀嚼して、今をどう生きるか。それこそが問題だと思います。「自分なりの落し前をつけてやる。」私は今、そんな静かな闘志を燃やしています。

今の話題のテロリストたちも、もしかしたら‘革命家’の一つの形態であるのかもしれませんが、本当の‘革命家’であるならば、100年、1000年の計を考えるべきです。「「若く、貧しく、名も知られていないこと」これは、中国の革命家が、やがて何事かをなすべき人物の必要条件として挙げた言葉」*だそうです。

私はクリスチャンでも、ラディカル(急進的)な人間でもありません。普通の?、仏教徒の極めて(年の割には)保守的(コンサバティブ)な時代遅れ(オールドファッション)の人間です。‘革命家’なんてとんでもないと思いますが、いくら時間がかかっても少しずつでも、よりよい世界を創っていく‘仲間’の一人でありたいと思っています。

こんなオールドファッションの人間でも、おかしいと思ったら、言うべきことはいいます。私はたったひとりでも言うべきことは言わなければならないと思っています。

「ダーウィンの悪夢」なんて、常識の常識。これをどう咀嚼し、乗り越えるか。この現実(の世界・社会)をどう変えていくのか。短絡的な答はいりません。みんなで悩んで考えましょうよ。それぞれの異なった立場の人たちが、それぞれ何をすればよいのかを。

最後に一言。わたしはそれでもまだまだ世界に絶望していません。私にとっての本当の敵はみえている?のですが、今はあえて言いますまい。(まだまだ見極め作業中というのが本音かな。)

Just say ‘We can change the world.’

(この項 了)

注:* i頁「はしがき」、佐藤誠編『地域研究調査法を学ぶ人のために』 世界思想社 1996

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