岡田斗司夫 『ぼくたちの洗脳社会』(2)
さて、前回の記事が中途半端になってしまったので、再度、ここで解説に挑戦します。
岡田氏は、‘洗脳社会’という言葉で何をいおうとしたのでしょうか。目次に沿って、そのパラダイムシフトをみてみましょう。(以下の文章は基本的に、岡田氏の言葉の引き写しもしくは再構成です。)
<岡田氏のパラダイム論>
狩猟時代 (モノ不足、時間あまり)
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「第一の波」=「農業革命」 (トフラーいうところの)
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管理社会と身分制度の成立→奴隷制、封建制度の誕生
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古代科学帝国の成立と限界 (モノあまりからモノ不足へ)
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「中世」 (モノ不足、時間余り) ⇒ 「高度抽象文明」
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15世紀の新大陸発見+科学の発展 ⇒ (モノ余り・時間不足の時代)
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「第2の波」=「産業革命」 (トフラー)
科学技術の発達、合理的思考法、民主主義、経済主義
「自由経済競争社会」 ⇒ 「自我の確立」を求める社会
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「第3の波」=「情報革命」 (トフラー)
「モノ不足、情報余り」の時代
「情報余り社会とは、一つの事実に対する様々な解釈、様々な価値観や評価・世界観といったイメージがあふれる社会」すなわち「洗脳社会」である。
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「自由洗脳競争社会」
マスメディアの衰退とマルチメディアの台頭によって、洗脳行為が双方向になり、いままで権力者が独占していた洗脳行為が、マルチメディアの発達によって民衆に解放されつつある。
私たちの生活の変化は、「日常生活において、被洗脳者、つまりイメージ消費者である私たちは、多くのイメージや価値観の中から自分が気にいったものを複数選択していること。/価値観やイメージが増えれば増えるほど、同じ価値観を共有するグループが刑されること。/私たちはそんなグループの中で、自分の価値観を基に複数選択して自分の生活をコーディネイトしていること。」に、すでに現れており、こうした人間関係の細切れ化は、これからもどんどん激化する。これは、「結婚」や「家族」の解体をも意味する。
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「何ものにも自分の人生を縛られない」という自由を得ることができる(社会)。
以上に岡田氏の理論をかいつまんでみましたが、氏いわく、現代社会は以上の世界観で読み解けるというものです。ほんまかいなと思うむきもあるかと思いますが、かくいうわたし自身は非常なる‘納得’をもって氏の論に合意してしまっているのです。
氏がいうところの近代/現代のパラダイムである『科学至上主義*=「科学や合理主義は、私たちを幸せにする」という価値観』や『経済至上主義=「一生懸命働くことが、みんなの幸せにつながる」という価値観』を、わたしもすでに素直に信じられないのです。
* 科学主義とは民主主義、資本主義、西欧合理主義、個人主義といった価値観を含む一つの世界観をいう。
なにか、ついポロリとカミングアウトしてしまったような後味の悪さが残りますが、わたしも近代のパラダイムに乗っかりながら、自分も裨益しながらも「現代社会」を居心地悪く感じている「洗脳社会」世代の一員であることは、間違いありません。
でなければ、そもそもこんなブルグもやりませんって^^? すでに洗脳戦線に参戦しているって感じです。
最後に、あえての私の「洗脳社会」論に対する疑問をのべます。
疑問というか、そもそも論なのですが、今の現代社会が全て、「近代社会/現代社会」の段階に至っているわけではありません。文明論や歴史論で陥りがちなことですが、現実の世界ではいろいろな段階の「社会」がそのまま共存しているのです。そもそも社会発達論ってわたしは嫌いなのですが、全体を俯瞰しようと抽象化すると具体的な‘現実’そのものを見落としてしまいます。ある意味、この岡田論は、日本とか一部の西欧地域では妥当なところもあるでしょう。しかし、それ以外の地域では、「自由経済競争社会」にも至っていない(いやな言い方!)地域が多く、まさにそれが「グローバリズム」に適応できる地域(国)とそうでない地域(国)との大きな摩擦を引き起こしているのです。
「狩猟社会」、「農耕社会」、「封建社会」など言い方(ラベル)はどうでもいいですが、それはそれでよい(認める)というところまでいかないと、これからの世界はきびしいと思います。
まあ、最後は、「グローバリズム」はあきらめて、何でもありの世界のまま=ほっておくのも手かもしれません。
結局、国連とか国際機関というチョー近代的な組織のいう論理は、『科学至上主義』『経済至上主義』の枠(フレームワーク、パラダイムといってもよい)から一歩も踏みだせていないのです。変な話ですが、それらの「科学主義」や「経済主義」の考え方が全ての地球の人類ができるようになるために、何百年かかることか。(すでに何百年も啓蒙や教育に字間を費やしていることを考えてみましょう)
わたしは、誰でもわかるような、もっとシンプルな原理・原則があるはずだと思います。もしくは、すべてのパラダイムの存在を可とするような、「メタ・パラダイム」というか。
おっと、形而上学や「メタ」理論に走るまいと思っていたのに、結構それも好きだったりして^^?
まあ、現実世界のフィールドワークから、どう「小」理論、「大」理論を展開するのか。やっぱりどこかで抽象化は必要だと思うのです。飛躍しすぎてもいけませんが、いつまでもバタバタと地べたを這いずり回って事実だけを重ねてもみえない‘もの’があるのではと思います。
いろいろ考えることがあると楽しいですわ、本当に。
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