選挙の季節 フィリピンも!
さて、久し振りにフィリピンの話題にふれます。ところで、日本でも統一地方選が4月22日(日)に終わったところですが、以前もふれているように、ここフィリピンも5月14日投票・即日開票の中間選挙に向けて全国津々浦々、選挙活動の真っ只中です。
まずは、マニラの市街の様子から。フィリピンではバランガイ(最小行政単位、日本でいう町内会みたいな規模と感じです)ごとに、主に守護聖人によるフィエスタというお祭りが年に一回あるのですが、そのときに、道路の上に常にセットされている?糸にというかコードに、カラフルなカラーの旗をつけてフィエスタ気分を盛り上げます。
先日、マニラに住む日本人の仲間と話す機会があったのですが、フィリピン生活経験がもう5年以上になる彼女がいわく、「フィリピンの選挙が、フィエスタ(お祭り)であることが、ようやくわかった。」というエピソードを紹介しましょう。「なんか、選挙になると(NGOの生計向上のプロジェクトのメンバーの)お母さん方が、全然、活動に参加しないのよね。なんで、そんなに忙しいのかってきいたら、「選挙で。」って別に何もしているわけでもないのに町が選挙で盛り上がってしまっていて、「いろいろ大変なのよ。」ってことで、そうか、こちらの人にとっては、選挙も祭りと同じ(非日常の場)なのだ。と納得した。」ということで、確かに、みかけだけとってもこりゃフィエスタですわ。
もう、町の商店の壁にもポスターがべたべたです。あとすごいのが、トライスクル(三輪自転車のタクシー)の客席の後ろに候補者のポスターをはったり、候補者の名前入り(さらにすごいのは顔写真つき)のカラフルなTシャツをおそろいできて乗務していたり、本当に、一目で選挙中だなあと感じます。(そのうち、写真を掲載しますね。)
ところで、フィリピンの選挙の激しさもまたよく知られているところです。
フィリピンはそもそも今でも‘国’でないという話があるのですが、まるで地方の豪族というか茗家というか一部の有力なファミリーに政治・経済からアンダーグランドまで牛耳られているという話もあり、選挙では、本当にファミリー対ファミリーの抗争というか、政敵の暗殺というか、実に血をみる激しい選挙運動が繰広げられます。そもそも犯罪率も高い上に、選挙になるとさらに熱くなるというところです。
日本では、投票日直前の4月18日に長崎市長が暴力団に狙撃されたということで、非常に大きなニュースになっていますが、‘フィリピンの選挙で血をみるのは結構あたりまえだからなあ’と、すっかりフィリピンボケしている自分に気がついて、ちょっとぞっとしました。
「暴力や武力による民主主義や自由な言論への挑戦は、断固として許してはならない」というような言説が日本で高まっていると思うのですが、そのようなこともありうる世界(フィリピンも一例)に身をおいてみると、そこまで‘民主主義’や‘自由’が絶対無比の価値をもつものなのだろうかと、ちょっと身を引いて立ち止まってみたくなります。(フィリピンも建前としてはアメリカの忠実な弟子(20世紀初頭から太平洋戦争までアメリカの統治下に置かれた)であり、‘民主主義’国であるのも、また事実であり真実です。)
確かに‘あるべき理念’の‘ひとつ’なのかもしれないが、まだまだ世界は広いし、そこまでたどり着いていないというか、多分わかっていても実現できていない地域や国があるのも事実です。この事実や現実に対して、とにかく‘民主主義はすばらしい’のだから、みんな全世界がそのルールに従うべきというのは、わたし的には、かなり無理があるなと思います。‘Democracy’と日本語にいう‘民主主義’とは実は似て異なったものとなってしまっています。もともと明治時代に輸入された概念は、言葉を変えると共に、その中味も日本人が勝手に作り変えてしまいました。別に英語や元の言語による‘本来’の定義に戻れという気もないし、その必要はありません。
なんとなく(本当は違っているかもしれないけど)合意できる範囲での意味での共通認識がもてれば、まずはいいのではないのかと、そして、やはり、世界は言葉ありきではないので、現実から、誰もが共感・同意できる価値観を探っていく。わたしは、多分、それは非常に簡単(シンプル)な言葉であるだろうと想像しますが、それだけでもOKではないかと思うのです。
無理に‘理念’や‘あるべき論’からはいるのではなく、現実の世界から我々がその場でできる範囲での実行と、そのちょっと先にあるであろう‘理想’を追っていく、そんな仕事(生活と言い換えてもいいのですが)の仕方がしていきたいと思います。
現実を見据えた上で、何をするのか、何ができるのか。世界というか世の中、いろいろチャレンジング(挑戦しがいのある)です^^?
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