鎌田慧 『ぼくが世の中に学んだこと』
‘開発学’を語る以前にどうしても触れなければならない本がある。
鎌田慧 『ぼくが世の中に学んだこと』 筑摩書房 ちくま文庫 1992
(初出:ちくま少年図書館70 1983)
お薦め度: ★★★★☆
実は、既に歩く仲間HPの中で何度も触れているので、そちらも参考にしていただくとして、私が一番、このジャーナリストの著者から学んだことは、「普通の人たちの営み」といおうか、鎌田氏は「下積みのひとびと」といっているが、そのかけがえのなさとでもいおうか。
最後の章に「ひとびとの中で」という節がある。
「大学にはいるまえに町工場ではたらいたことで、ぼくはごく一部のことだとはいえ、社会を体験した。・・・/フリーになったおかげで、いろいろなところで、いろんなひとと出会うことができた。それも、「取材」で会う、というよりは、おなじ場所にいる仲間としての話しあいができたのだった。/新日本製鉄やトヨタ自動車や旭硝子など、日本でも有数の大企業ではたらいて、そこがはたからおもわれているような楽園でないことを知った。・・・その工場の最下層で、名も知れず死んでいく数多くのひとと出会うことができたのだった。/このひとたちは、けっしてめぐまれていなかったが、みんな冗談好きの仲間おもいのひとたちだった。あまりに心優しいからこそ、いまの社会ではめぐまれない、ということなのかもしれない。…」
http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n0008.htm
http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n0009.htm
私は鎌田慧よりかなり後になって民俗学者の宮本常一の著作と出会ったわけであるが、この歩く仲間の巨人達の‘人’をみる目は限りなくやさしい。
たとえどれほど科学が発達しようとも、どれほど世の中が便利になろうとも、かならず‘下積みのひとたち’はいるし、彼らがいなければ、この資本主義社会は回っていかない。開発援助とかいって、国外の‘目に見える’貧困を追う前に、日本の中で何が起こっているのか自分の足元をみようとしないわれわれ自身の‘精神の貧困さ’*を問題にすべきではなかろうか。
*「貧困なる精神」とは同じくジャーナリストの本多勝一のルポルタージュ全集のタイトル。このネタは、‘貧困’を語る際にぜひ使ってみたい。すなわち、‘貧困’とは物質的なものではないのですよ。何十年も前から‘精神’と結びつけて考えている日本人がいるのですよという意味で…。欧米の人は眼を白黒させるだろうなあというのは、勝手な私の想像でしょうか^^?
P.S.
ものをみる目の確かさという点で、鎌田慧の取材術(というか精神)には学ぶべき点が多い。今では、手に入りにくいかもしれないが、以下の本はフィールドワーク論として読んでも興味深い。
鎌田慧 『ルポルタージュを書く』 岩波書店同時代ライブラリー 1992 (単行本 1984)
「ルポルタージュは、現在から描いてもいいし、過去から描いてもいいのだけれど、やはり現在と過去がつながっていて、それからその先どこまでみえるかはべつにしても、先につながっていくはずのものです。・・・先がそこから変わっていく、現在の動きの中から未来が変わっていくというその先をみたい。変えることに参加したい。そういう方向にむけたものを読みたいし、書いていきたい。・・・/ひとつの事実が提示されて、世界観を変えてしまうようなもの、そんなルポルタージュを期待しています。」 (171ページ)
開発民俗学の途もかくありたいものです^^?
実は、この本の一節を以下の記事で紹介していますので、ご参照ください。
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