中尾文隆編著 『ポケット解説 柳田国男の民俗学がわかる本』 あるいは時代と学説史について
非常に興味ぶかい本でした。タイトルが甘い(あんちょこ本っぽい)?からといって内容を見くびることなかれ^^?
『ポケット解説 柳田国男の民俗学がわかる本』
秀和システム 2007年3月15日 初版
お薦め度: ★★★☆☆
一口コメント: (日本)民俗学の父、柳田国男の業績を俯瞰するのに最適な一冊。特に、彼の生きた時代背景をおさえている点、および代表的な柳田国男論の抄録がなされている点もユニーク。
正統的な?柳田国男継承者からはでてこないような視角が興味を誘います。
さて、以前、学説史をおさえることの重要性について、軽く触れましたが、この本を読むと、その必要性を具体的に改めて認識することができました。
タイトルが悪い?ので、単なるアンチョコ本に間違えられそうですが、内容はきわめてまともな概説書です。
特に、サブ・タイトルにあるように、「逆立した柳田像を重層的に検証する!」とあるように、柳田国男の神秘というか、彼が語ったこと、語らなかったことを時代背景とともに検証した点が非常にスリリングです。
当然のことですが、一人の思想家なり学者が生まれるには、その時代背景と彼を取り巻く環境(社会環境、人脈など)のまさに偶然としかいえないような作用・副作用が必要です。
また一つの時代を生き抜き、一つの時代を創ったということは、逆にいえば、その時代のもつよい意味でも悪い意味でも制約を免れることはできません。
平たくいってしまうと、英雄だろうが平民であろうが、誰もがその時代を生きた‘時代の子’という制約を免れることができないのです。
最近、民俗学をちょっとまじめに勉強しようとして、柳田国男に挑戦しようとしていたところなのですが、彼の「農政学」への挫折、戦争(日露戦争、第一次大戦、満州事変、敗戦)と民俗学との関連、「木曜会」という私的なサロンを通じて、いかに彼が「民間伝承論」から「民俗学」へと日本各地の趣味の民俗学徒を組織だてていったのか、非常におもしろい視角を示してくれました。
ぜひ、直接手にとっていただきたいのですが、特に、私が興味を引いた点を2点ほど。
まず一つ目は、先住民としての「山人論」と、「海上の道」で日本人の祖形を求めた柳田国男は、当初よりアイヌと沖縄という‘内なる異民族’を視野に入れていました。
なんのためか、それは台湾と朝鮮という植民地経営のため?というトンでもない意見が提示されます。しかし時代背景と、彼を取り巻く人脈をみるとあながちそうでないとはいいきれないところがある。
そもそも柳田が学問として学び、最初の職業(農商務省の役人)として選択した「農政学」自体に対して、彼なりの思い入れと戦略があったものと思われます。しかし、なぜそれが「民俗学」へと変容していったのか、非常に大きな闇というか謎が横たわっているといえましょう。
二つ目は、そのような大きな時代制約を負った「民俗学」または「文化人類学」自体が植民地主義ときわめて密接に結びついたものであったことは、今では広く言われていることですが、なぜそのような「民俗学」や「文化人類学」をいまだに学び発展継承していかなくてはならないかということです。
この本にも見られるように、そもそも‘学’の立ち上がり自体は非常に個人的な問題意識と、やはり時代が求めている、つまり同じような志なり問題意識を持った者たちが、互いに情報共有のネットワークを結ぶことにより、徐々に一‘門’としての‘学問(門)’というものが生まれてきます。
日本の民俗学は、やはり世界に十分誇るべき、‘野の学問’だと思います。これは、「近代(主義)」と「西欧の学問(体系)」と「国民国家(主義)」という、いわば外圧によってこじ開けられ壊れかけた‘原日本人’のアイデンティティを探し、新興の国民国家である‘日本国’という身を守り、日本という地域に住む人々の‘日本人という共同幻想’を創り、「日本国民国家」としてあがらうための一つの思想的な理論武装であったともいえます。
逆にいえば、明治初期(8年)に生を受けた柳田国男をして大成されたものの、そもそも‘明治’という時代背景なしには「日本の民俗学」は成立し得なかったともいえますし、柳田がいなくても、似たような思想や運動は起りえたともいえましょう。
こうして考えてみますと、今、「民俗学」や「文化人類学」を語ること(研究)ややること(実践)することとは、どのような意味があるのかを、自分の趣味や楽しみを越えたレベルでもう一度、定義しなおすことが必要だといえます。
今、「開発民俗学」を語るとは。非常に重たい宿題ではありますが、これまで柳田国男や彼に続く多くの先達が積み上げてきた「(日本)民俗学」の学問知と経験、さらには世界に眼を向けて植民地主義の片棒を担いだという宿命を背負ったまま、研究と実践を続けている「人類学」に対して、われわれが新たに何を積み上げることができるかという問題でもあります。
まだまだ先は全く見えませんが、そもそもの志、たとえば柳田が語った「世のため人のため」の学問という言葉は、たとえその裏の真意がなんであれ信じていきたいと思います。
蛇足ながら:
そもそも「学説史」を押えることは大切ですよということを言いたかっただけなのですが、結論は別の方向にいってしまいました。
別のところでも書きましたが、誰がどのような時代背景の中で、誰に向かって発言したのか。これを押さえないと、彼の言説(学説)を正しく理解することはできない。
意図的に誤読することも当然、可能ですし、その可能性というか発展性を否定するつもりはありませんが、時代背景をふまえない批判や非難は議論に当たらないと私は思います。所詮、われわれも含めて‘時代の子’という制約は、絶対に逃れられないのですから。
また、ちょっと社会人?をやっているおかげで、理想(理念)と現実を分けて考えれるように鍛えられました^^?つまり、当然、なんらかの望ましいこと(理想・理念)を夢想することが勝手ですし、それはそれで大切なことですが、だからといって現実を、こんなのうそだとか、こんなことはあってはならないと考えることは、全く別だということです。
どれほど残酷で醜い酷いことがおこなわれていようと、現実は現実として直視しなければならない。それを認めたうえで、次の手を考えることができると思うのです。
幸い、私はまだそんな修羅場や地獄は見ていません。でも、それをさけたり隠蔽することなく、勇気をもって立ち向かっていきたいと思います。最悪の自体の可能性も否定はしない。まだまだそれでも立ち上がれるだけの力を持ち続けたいと思います。
ではでは^^?
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