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2008年11月の14件の記事

2008年11月30日 (日)

第3講 補論1&2 民俗学の視点

第3講:現状分析の視座をどこにおくのか?(補論)

 

補論1:定性・定量のベンチマークの考え方(民俗学の視点)

補論2:宮本常一氏の父(宮本善十郎)の「世の中をみる十か条」

 

2000812

200573日補筆

 

補論1:定性・定量のベンチマークの考え方(民俗学の視点)

 

本来ならば、日本の援助機関、国際機関やNGO等の基準なりガイドラインを比較検討して論ずるべきであろうが、あえて主観で上記の項目をあげた。特にUNDPHDIなどについてもふれようと思ったが、逆にこのようなことは他の教科書をみれば、既に比較検討されていることであるし、逆にマニュアルやガイドラインを作ろうとすると何でもかんでも詰め込んでしまいチェックリストが膨大になるだけで、結局、何が本質なのか訳がわからなくなってしまうからである。

ここで逆に読者に検討をお願いしたいのは、日本の民俗学研究や農業地理学などのフィールド調査で培われた分析・分類や調査手法である。

 

3-1 上野和男・高桑守史・福田アジオ・宮田登編 『新版 民俗調査ハンドブック』 吉川弘文館 1987

3-2 大島暁雄・佐藤良博・松崎憲三・宮内正勝・宮田登編 『図説 民俗探訪事典』 山川出版社 1983

3-3 文化庁内民俗文化財研究会編著 『民俗文化財のてびき-調査・収集・保存・活用のために-』 第一法規出版 1979

 

上記2冊とも、日本の民俗学調査のハンドブックで両者とも図版や取り扱い範囲が広く、特に途上国でフィールドワークを行う際にも、非常に参考になるものである。3-1は、特に民俗調査の方法と質問表文例について、村落から親族、生産技術、衣食住など日本を対象にしているものの、全ての人間生活の側面を扱っており、その意味でも目のつけどころがわかる。3-2については、I.衣食住、II.ムラの仕組みと信仰、III.生業とくらしIV.民俗芸能と、地域の人間生活全てを図解しているところが非常に参考になる。上記2冊とも、ぜひ手元に置いておきたい。3-3は、文化庁が定めた民俗文化財にかかる分類や調査のガイドライン。上記2点があれば特に必要ないか。

 

3-4 市川健夫 『フィールドワーク入門 地域調査のすすめ』 古今書院 1985

 

 地理学者による日本の地域調査の入門書。特に農業にかかる農作物を切り口にした農村調査、山村、漁村、観光地、工業地域、都市地域などの地域特性に沿った調査方法を列記している点が特筆にあたる。

 

3-5 坂本英夫 『農業経済地理』 古今書院 1990

 

 上記に引き続き地理学者による農業地理学の入門書。筆者がいうように「経済要因を抜きにした農業地理の研究の多くは常識以上に這い上がれなかった」ことより経済要因にも配慮した基本的な入門書。新しい課題だけでなく主要な学説を押さえているところがうれしい。また「終章 農業地理学の研究調査法」は次のステップへの参考となる。

 

3-6 宮本常一 『民具学の提唱』 未来社 1979

 

 民具から各地域ごとの生業の成り立ちへ想いをはせる。具体的なものから人と地域を考える宮本氏の手法を垣間みることができる。われわれ日本人の祖先が、いかに現地の現状にあわせて道具をきめ細かく発達させていったのか、民具により技術や文化の伝播をも知ることができる。

 

補論2:宮本常一氏の父(宮本善十郎)の「世の中をみる十か条」

 

宮本常一氏の自伝的著作である『民俗学の旅』講談社学術文庫 1993より、彼の世の中をみる視点の原点となった父の教えを、上記の私の上げた項目との比較という意味で下記に引用させていただく。若干略させていただいたが、この部分に限らず、ぜひ全文を味読してほしい。

 

(1) 汽車に乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。・・・

(2) 村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ、そして方向を知り、目立つものを見よ。・・・

(3) 金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ。

(4) 時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。

(5) 金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。しかし使うのがむずかしい。それだけは忘れぬように。

(6) 私はおまえを思うように勉強させてやることができない。だからおまえには何も注文しない。・・・しかし身体は大切にせよ。・・・しかし三十すぎたら親のあることを思い出せ。

(7) ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている。

(8) これからさきは子が親に孝行する時代ではない。親が子に孝行する時代だ。そうしないと世の中はよくならぬ。

(9) 自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。

(10)人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。あせることはない。自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。」 (前掲書3738頁)

 

しかし実に簡潔にして要を得た教えだと思う。世の中をみる視座というものは、そんなに複雑に考える必要はない。本質とはきわめて簡単(Simple)に存在するものだということを感じさせられる。

第3講: 現状分析の視座をどこにおくのか?

第3講:現状分析の視座をどこにおくのか?

 

補論1:定性・定量のベンチマークの考え方(民俗学の視点)

補論2:宮本常一氏の父(宮本善十郎)の「世の中をみる十か条」

 

2000812

2003113日補筆

 

 今の日本のODAをめぐる論議では、社会基盤整備のための大型の公共事業による施設物への案件の偏重に対する批判が続出している。確かに過大な施設の維持管理などフォローアップを含めた運用をみると、必ずしも全ての援助案件が成功しているとはいいがたい。そのなかで、具体的なよいプロジェクトを考える前提条件を順次、検討していきたい。

 

 まず、現状分析の視座をどこにおくのかという問題がある。何を持って問題の出発点とするのか。これをクリアにしないことには、全てが進まない。確かに、経済的な現状分析は一つのアプローチの仕方ではあるが、その尺度自体の該当性については、慎重な検討が必要と考えられる。

 

 世界銀行(WB)や国連開発計画(UNDP)等のいう経済的なあるいは社会的な尺度(指数)は一つの手がかりではあるが、それで一体なにがわかるのであろうか。当然、違いを比較するためには、もとになる指数と比べるものとの何らかの定量的な比較ができるのは望ましいことであろう。しかし、その指数を利用するのにあたって、われわれ自分自身が理解できる数字であるかどうかについて厳密に認識しなくてはならないと思う。つまり、数字はある意味で抽象的なものである。その数字の背後にあるものを理解することは、想像力のみならず体験に基づく経験なりが必要である。その実感を伴った指数としてどのようなものがあるのかを検討したい。

(補論1、2を参照)

 

見えるものと見えないものについて

 

 例えば、開発調査などでは、統計数字の収集、社会調査、自然条件調査の実施等によって、それぞれの分野の専門家の分担作業によって、当該地域なりの現状が解明されていく。

新入社員時代の一番の問題点は、現場に行かないことには現場の状況はわからないということであった。例えば、下記の項目について、現場を知らないものにどれだけの想像力の飛躍を求められるであろうか。

 

A.目に見える指標;

1.人の姿。(服装、足元、)2.店の種類(衣食住)それぞれの様子。3.軍隊、警察の存在。4.市場の状況。5.都市および郊外の様子。6.村落の様子。7.子どもの姿。8.朝、昼、晩の人の動き。9.繁華街の様子。10.学校(義務教育)の様子。11.公共施設とその清掃状況。12.食堂の賑わいと食べ物の種類。などなど。

 

B.眼に見えない指標;

1.音。2.時間をめぐる習慣。3.暦。4.祝日や休日観。5.人生観。6.来世観。7.幸福感。8.音楽や踊りに対する感性。9.隣人及び他人に対する接し方。10.宇宙観。11.嫌悪感の基準。などなど。

 

 開発をめぐる社会調査の盲点として近年いわれているのが、定量調査と定性調査をどのように組みあわせるかということである。例えば、上記にあげるようなことは、目に見えることも、見えないことも合せて、調査結果として、表面にあらわれにくいことは容易に想像がつく。まさに現地を知っているものは、上記のアトマスフィアを踏まえて何らかの評価を下しているはずであるが、現場を知らない者に、統計数字などだけで現状を伝えるのは非常に難しいといえよう。

 

現場の匂いを感じさせない開発計画(計画と実施の間に横たわるもの)

 

そして、上記とは別のいわゆる‘客観的なデータ’を基に、例えば開発調査では、短期(5年先)、中期(1015年先)、長期(20年先以上)の開発プログラムが組まれていく。国家100年の計とはよく言われるが、30年や50年さらには100年先までを見越した開発プログラムを立てることは非常に難しい。いくら図面があるとはいえ二次元で描かれた未来予想図は、現地に住んでいる人をしても、なかなか現場の匂いがしない無味乾燥した報告書というか紙束といえなくはないケースも多々あると思う。(私がその報告書を書く立場の人間である責任を放棄しているわけではないことは、あらかじめ断っておく。)

 

しかし、特に文系の人間が考えなければならないことは、実際に計画が実施にいたって目に見える開発現象が起こった時になってはじめてバタバタと目先の変化ばかりを嘆いても仕方がないということである。例えば、ダムひとつを作るのには計画から始めて調査を重ねて、実際に物として完成するのに1015年の時間がかかるということだ。物が出来る頃になって、やれ環境破壊だなどと騒いでも、それは既に10年前以上の研究の積み重ねがあるのである。確かに当初の計画時点の社会状況と完工時の社会状況が大幅に変わることは多々あることであり、今の大規模開発に対する批判はその20年まえ30年まえのプログラムに対する異議申し立てであることは間違いない。しかし、例えば瀬戸大橋が計画・実証研究など20年近くの時間をかけて完工したことに対してなぜ大きな反対や批判がないのか。つまり、物によって評価が違うということが、この“開発”問題の難しいところである。確かに余計なものをつくる必要はないかもしれないが、実際に必要としている人がいて、言い方は悪いが利権というものも存在する。

 

もっと具体的に足元をみてみれば、都市の区画整理や県道、市道の整備一つをとっても、個人の損得、利権をめぐるいろいろな地域住民の葛藤が生ずる。例えば故郷の隣町のこと、田んぼや畑の間に、市の開発プログラムによって市道の整備が行われることになった。これも多分、10何年越しのプロジェクトであろう。道ができるということは、必然的に人と物流の変化をもたらす。道路完成後に地域住民の中で話題になったのは、誰がこの開発で儲けたかというやっかみ混じりの陰口である。やはり時流をみるのに敏い人いるもので、自分の畑をうまく売りはらって自分の家を建て替えるもの、郊外大型店舗に土地貸するもの、自分で店をもって商売がえをするもの、駐車場にするもの、アパートを建てるもの、また逆に、土地転がしのディベロッパーに対して頑なに自分の土地を売らずに畑仕事にこだわるもの、さて道ができてふたを開けてみると、道路成金がいれば、まったく損とはいわないまでも以前と全く変わらないもの、明らかに、“開発”の恩恵を蒙った者とそうでない者が存在する。少なくとも今の私有財産を認める日本の社会では、結局、うまくやるかそうでないかは個人の才覚にまかされてしまうことは、否定できない。が、結局感情的には何らかのしこりが残ったりする。為政者というかプログラムを組んだものは、技術的には完璧な仕事をしたのであろう。しかも当然地域住民のヒアリングもして、当該インフラ完成後についてもある程度の青写真を描いていたはずであるが、実際にものが出来た後の社会の変化について、絶対に100パーセントの予想は不可能で、心理的なケアーまで計画段階で組み込むことは、不可能といえよう。そんななかで、作業をせざるを得ないとしたら、果たしてどこまで考えることが可能であろうか。

 

 今の時点での私の暫定的な答えとしては、結局、施設完工後の維持管理(O&MOperation and Maintenanceともいう)については、その地域の人たちが責任をもってやらざるをえないと思う。確かに、天から降ってきたようなプロジェクトかもしれない。また、廃棄物の焼却場とか明らかに負の遺産を背負わされる場合にはどうすればいいのか。はっきりいって今の時点では、私はそのようなプロジェクトについて評価する能力はない。ただ言えるのは、一概にそれは駄目だと言い切れないということ、必要悪などといいたくないが、それでも必要なものもあることは、それがいつどこに必要かは別にして認めざるを得ないということだ。

 

 この開発による社会の変化はもとより、定性的な社会の側面に対する配慮と第三者からの理解については、さらなる研究と、プロジェクトのあらゆるステージにおける、いろいろな角度からの評価が必要である。しかも、その内容については、一般論に陥らずに、具体的に個々のケースについて考えていくことは、口で言うよりはるかに難しいといえよう。

 

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補論1:定性・定量のベンチマークの考え方(民俗学の視点)

補論2:宮本常一氏の父(宮本善十郎)の「世の中をみる十か条」

(次ページを参照)

2008年11月29日 (土)

第2講: 「開発」をめぐる論議

第2講:「開発」をめぐる論議

200081

 

 開発に対するアプローチとして、その前提条件がどこにあるのかをまず確認しなければならない。私は、特に系統だった開発についての教育を受けたわけではないので、かなり論理に飛躍や見落としが多いと思われるが、とりあえず私見の範囲でまとめると、いままでの、この分野に関するアプローチとして主に次の2つがあるように思う。

 

1.開発経済学に代表される社会科学的なアプローチ

 

‘開発’を経済学が引っ張ってきたという側面はかなりあると思う。そもそも経世済民から、経済という和製語が生まれたとはよく言われていることである。しかし、幕末以来、外来の思想(科学)として輸入してきたこの概念を消化し、自国(この場合、日本)を超えて、世界に適用させようと日本の学界が動き出して、かつ実証的な成果が現れだしたのは、恐らく1970年代以降ではないか。その成果の発表に先立つ現場に足のついた「アジア」を見据えた研究の出発点は、多分、戦後にあり、ある程度日本の戦後復興が落ち着いてきてからだと思う。

 

(海外への展開の萌芽としては、日清、日露戦争に遡れるかもしれないし、満鉄など特殊な機関があったことも事実であろう。そして大東亜戦争を戦い抜くため、もしくは純粋に学術的な興味から、あるいは他分野である歴史・地理などの立場から地域研究を推進した先達たちの問題意識や功績や経験は、いま改めて別の視点からきちんと系統だって評価されなければならない。)

 

ここで使っている「開発経済学」の定義自体をまずはきちんと学問的に押さえなくてはならないと思うが、乱暴に社会科学的なアプローチとしてくくってしまうと、いま話題の「開発社会学」や「開発政治学」等も基本的にこの社会科学的なアプローチといえるであろう。

 

2.鉱工業・農業・社会開発に代表される工学「(CivilEngineering」としての科学・技術的なアプローチ

 

しかし、‘開発’の理論的な枠組みはどこにあれ、実際に開発自体を推進してきたのは、全地球上で普遍と思われた科学・技術自体ではなかろうか。特に、文系の学部から見落とされがちであるが、経済発展の基盤となる社会基盤の整備から、もっと小さく公衆衛生の改善プロジェクトまで、純粋に科学的・工学的・技術的なアプローチであると言い切ってしまうのは乱暴すぎるだろうか。いくらソフト型開発といっても、その前提条件としているのは、科学・技術的な知識そのものだと思う。

 

ところで上記の2つアプローチをみて、単純に気がつくのは、いずれも近代科学の成果を利用もしくは応用して‘開発’をはかろうとしている点であろう。こう考えてくると、‘開発’というもの自体の位置付けというか、定義づけがあらためて必要となってくる。このこと自体が、この小論の目的でもあり、単純に結論づけられるものではないので、まず考える視座というものから確認していきたい。(第3講を参照)また、文脈により括弧つきで‘開発’という言葉を使うことを許していただきたい。(ここでは暫定的に、和語の‘開発’について議論しているが、先進国の中での、例えば’development’という言葉を使おうとすれば、それ自体に対する別の考察が必要である。)

 

 とりあえず、今確認したいことは、‘開発’をめぐる論議の全てとはいわないが、主だったものは、やはり暗黙の前提として‘近代的な’世界における‘開発’の実践なりが前提として討議されているのではないか、ということである。

 

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補足1:結果としての‘開発’行為をどう考えるか?

 

実は、非常に見落とされがちなのだが、実際に世界に‘開発’を輸出し実施、推進しているのは、多国籍企業等、民間による直接・間接的な投資による世界の単一市場化であろう。本稿では、「開発援助の現場」での‘開発’を前提に論を書き進めているが、現実の民間の動きのほうがはるかに速く、ある意味で政策や学問レベルとは全く違った座標軸で世界を変えている気もする。ただし、本稿での議論の対象とはしない。

 

補足2:‘脱’開発をめぐる論議とは?

 

 当然視野にいれなければならないと思うが、いかんせん今の私の力に負えない。今後の講義でいくつかその動きを紹介したいが、個人的には、単なる‘裏返し’の‘開発’議論であってはならないと思う。また、同時に‘開発’自体の位置付けが日本では明確にできていないとも思う。加えて、例えばエジプトの新聞で読んだが、’Development’ の推進や、‘Living Standard’の向上等の言葉は、いわば錦の旗ではないが生きた言葉として途上国では民間に流布している現実もある。したがって、今の時点で‘脱’開発を議論するのは時期尚早な気がするし、‘開発’自体の中味を問い直すほうが先であろう。

 

(参考文献;第3講を参照。)

近況報告 11月28日 しばやん

転職して、ようやく2ヶ月目も終わりつつあります。実は地元のマリングッズの会社にUターンしたのですが、これがまたなかなかおもしろい。営業企画の部署に配属になったのですが開発コンサルタントで修行?してきたことがそのままつかえます。EC(Eコマース、ようするにインターネット通販)グループで、今はやりのインターネット通販のウェブの改善や、来年度の通販カタログの作成に取り組んでいます。

おもしろいのが実際に具体的な‘モノ’を扱っているところ。マリン関係でもメインは(モーター)ボートと水上バイクで、それにプラスしてウェアなりバナナボートなりマリンに関わるもろもろを日本全国の小売店への業者販売と、通販で個人のお客さんに売っているわけですが、バーチュアルショップではなくて、商品倉庫やボートや水上バイクの整備工場、小売店があって、実際に商材を手にとってみれるところが、今までの職業とまったく違っていて非常におもしろいところです。

当然、慣れない仕事ではありますが、商品を通じてお客さんと直接向き合えるところに非常にやりがいを感じます。

そうそう、これに絡めて、「海洋民俗学」にも手を出すことにしました。仕事と直接関係するわけではありませんが、その奥行きを増してくれるのではないでしょうか。
ではでは^^?

「海に生きる (海洋民俗学の世界)」

http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/cat20842145/index.html

2008年11月27日 (木)

第1講:現場からみた開発

第1講:現場からみた開発

2000715

 

ところで、人は一体誰のために、また何のために生きようとするのであろうか。世のため人のためと言っては、あまりに話が大きくなってしまいすぎるが、実際の問題として、世界の“開発”のための“援助”をとりまく業界は存在する。

 

実際に目に付くのは、政府高官の国際政治がらみの巨大なプロジェクトの数々や、特にうまくいっていないものをマスコミは格好の餌食として広報してくれるが、実際には表には積極的にでてこないが、日本として、そして世界として国際機関、2国間協力をとわず、膨大な数のプロジェクトが現在進行中である。

 

個々の内容は、はっきりいって技術的な専門家の仕事である。実務担当者として、援助機関の職員、調査・計画を行うコンサルタント、実際の工事や調達を行うサプライヤー(商社)、コントラクター(建設)が、先進国サイドとしてあげられよう。そして、受け手(途上国サイド)として、カウンターパート(先方政府機関の担当役人)、実際に便益を受けるべき民衆・住民がいる。

 

いままで、この極めて密接な実務担当者たちの声は、表にでることなく(国家政策の大規模開発の場合、通例、計画自体が実施に移されるまで、公正な入札等のために原則、非公開である)、出来たもの、見えるもののみ批判が集中している。

 

日本の実施したプロジェクトに限ってみても、例えば、とある途上国に行って、この社会インフラ(空港、道路、地下鉄、橋、建物etc.)の建設にあたって日本の企業が計画・設計・施工したことをよっぽど関心がなければ知らないし、見てもわからない場合が大多数であろう。さらにダムや取水施設など山の中にあったり、水道施設のように地中に埋設しているものについては、全く見えないか、仮に街中にあっても道路の下のものには、全く気がつかないで通りすぎているのだろう。

 

これら巨大建造物や社会インフラについて、国内の事業についても、あまりに普通の人たちの関心は低い。瀬戸大橋やレインボーブリッジ、新幹線、高速道路、なにか全てあって当たり前のもの、はるか昔からそれがあったかのように思いこんでいないだろうか。

 

確かに、与えられているものを十二分に利用し、恩恵にあうのは当然のことであるし、都会生活者は特に、自分のゴミの処分すらできない。ひとたび災害に遭えば、ライフラインなどと言われる電気、水道、ガス、電話、鉄道、道路などの破壊は、住民に確実かつ致命的な被害と長期にわたる“不便”をもたらす。

 

ところで、この“便利さ”は、いつからのものかと考えれば、実はそんなに昔からのものではない。トイレや台所回り、洗濯機、冷蔵庫など、身の回りの生活設備にしても、実はこれほど普及するのは、つい最近のことである。

 

時代が進むと、何が変わって、何が変わらないのか。何がよくなって、何が悪くなったのか、特に渦中にいる私たちは、気がつかずに日常を過ごしている。自転車、スクーター、バイク、自動車など移動手段、テレビやラジオやカメラなど、情報機器のありがたさに気がつかないほど、日本はわずかな年月で、“みんな”の耐久消費材としてしまった。

 

物に囲まれる幸せさ、まさかこの数年で、テレビが各部屋に、個人が携帯電話を、テレビゲーム機やパソコンすら、みんなの玩具や文房具扱いになると誰が想像したであろう。なんでもある世界、そして物がなくてもかまわない世界。物質中心的で、みんな文字が読めて書けて、計算もできる世界と、文字をもたない世界、どちらがいいのか。人間の条件とは一体なんなのであろうか。

 

現実の世界は厳しい、特に途上国にいくと本当に何もないようなところで人が住んでいる。ブルキナ・ファソの地方では、全く昔ながらの生活があった。国際機関や各国の援助で、ハンドポンプ付の井戸が掘られたとはいえ、その村の酋長さんの家にはラジオとスプリングが剥き出しの鉄製のベッドと、自転車しかなかった。村の市場でたむろしていた男たちは、みな誇らしげにラジオを身につけていた。学校もあるとはいえ、彼らの何人が“高等”教育を受けているのであろう。いや何人が、読み書き計算ができるのであろう。

 

エリトリアに行ったときのこと、アスマラという60万人ほどの首都は、イタリアの植民地であったこともあり、モダンな西洋風な洋館のたつ街区があると思えば、町のはずれの岡の回りは、給水車がドラム缶に水を配っていた。町の市場では、親父が座っているものの、外国人である私に英語で話し掛けて、数字を計算して領収書を書いてくれたのは、小学生2、3年生かと思われる息子である少年であった。(当然、現地人相手には親父の方が貫禄がある。)

 

パワーエリートと民衆との接点はどこにあるのであろうか。政府の高官に付き合うのと同時に市井の人に触れ合うと、逆に亀裂や溝の深さにたじろぐことが多々あった。しかしどこでも英語学習熱があり、特に子どもに対する教育熱心さには、驚かされる。話が、どんどん飛躍してしまうが、私たちは、何を学ぶことによって、豊かになっていってきたのであろう。この日本で生きていくためには、文字は読めないといけないし、計算もできないといけない。道路の渡り方や電気・水道・ガスそのものというより、それら見えないものの危険さおよび、その器具の取り扱いを知らなければならない。文字を知らなければ、本当に生きていけない。

 

逆に、勉強どころではなく自然条件の厳しさに必死に戦わなければ生きていけない世界の人たちがいる。果たして、よりよい世界とは何なのであろうか。BHN(ベーシック・ヒューマン・ニーズ)の充足がまず必要といわれるが、一体、私たちはどこから手をつけていったらいいのだろうか。特に職業として、開発に取り組まざるを得ない人たちは、どこに足場を置いているのであろうか。専門家の世界として、個々人に専門の技術が求められる職場で、私は何を足場に生きていけばいいのであろうか。

 

(参考文献;0-13も関連します。しかし、とりあえず海外に行って歩いてみることをお薦めします。)

 

開講にあたって:いま‘開発’を考えるとは

開講にあたって: いま‘開発’を考えるとは

2000715

 

世の中、この日本国内に限っても途上国や開発に対する人々の関心は、非常に高まっている。ほんの10年前は、まだ欧米以外の外国に関心をもつものはいても少数であったと思う。当然、かなりマニアックな先人が多くいたことは承知の上であるが、実際、私が12年前に「アラビア語」を大学で専攻しようとした時、高校(それなりに進学校であったが)の同級生からは、随分、奇特な人とみられたと思う。

 

全く今思えば本当に不思議なくらいイスラームに関する認識が変わった。たった10年前なのに、ムハンマドはマホメットと言われていたし、イスラーム教徒(いまではムスリムという専門用語も定着してきたが、当時には、回教などという古い言葉を使う人もいた)は4名まで妻をもてるとか、「右手にコーランを左手に剣を」などという言葉がまことしやかに学校教育の場で語られていたように思う。

 

さて、そんな世論や風潮がいかに変わってきたかという、‘超’現代(*)の移り変わりについては、みなさんそれぞれが実感していると思うので詳細ははぶくが、本講でよってたつしばやんの立場について、若干、先に説明したい。

 

しばやんは、1970年(昭和45年)生まれである。(大阪)万博が行われたとか、よど号ハイジャックがあった年とか、「ドラえもん」が少年マンガ紙に連載開始された年と言ってもいいであろう。

世代論というか、生まれ育ちの環境は、人間形成にかなり大きな影響を占めると思われるので、ことあるごとに、それと踏まえずこのホームページで語られると思うが、逆に今、学生をしている人たちとかに対して、まず強調したいのは、「日本もホンの50数年前までは途上国であった」という歴史的事実である。

 

当然、戦後25年もたって生まれた私が、当時のよすがを知る由はないが、しばやんが共感できる一つの立場として、上記の言葉を軸に、今の‘開発’問題を考えていきたい。

 

あくまで、この講義はしばやんの実感から書き起こすが、項の終わりに出来る限りその都度、関連する参考文献をあげて読者の参考としたい。

 

まず、この「日本」の戦後についての手軽な概論として下記の本の立場というかスタンスを大いに参考にしていることを述べておく。

 

(参考文献)

0-1 加々美 光行 『アジアと出会うこと』 河合文化教育研究所 河合ブックレット30 1997

0-2 木村治美 『こころと技術革新』 文春文庫 1989(学習研究社 1985

0-3 朝日新聞学芸部 『台所から戦後が見える』 朝日新聞社 1995

 

*しばやんは、仮定①1955年以降に生まれた日本人は、それ以前の世代の人と人種が違うかと思うほど発想方法というかセンスがかなり違うのではないか、②1992年か93年以降は、‘「超」現代’と言ってよいのではないかと考えている。この件は別項目として「歩きながら考える」で取り上げたい。(ちなみに、当然、お気づきだと思うが、野口悠紀夫氏の『「超」整理法』が中公新書で発表されたのが1993年である。)

「‘開発民俗学’への途 (第1部)」を転載します。 (目次)

『人類と開発フォーラム』(歩く仲間HP)上で掲載した小論です。ちょっと目立たないところにあるので、ブログのほうも転載することにします。よろしくご高覧ください^^?

続きが待てない人は、こちらへどうぞ。

http://homepage1.nifty.com/arukunakama/r0000.htm

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開発民俗学’への途(第1部)連続講座>

All rights reserved by Eichi Shibata@2000-2008

今、開発を考えるとはどういうことなのか。しばやんといっしょに考えてみましょう。

しばやん書き下しの‘歩く仲間’のための実践的な「現場からの開発学入門」です。

※タイトルを「‘開発’学への途」から「‘開発民俗学’への途」に変更しました。(2005/4/15)

開発民俗学・私論を新規に連載開始します。関連記事の紹介もこちらで行います。

 (2008/1/27) New

「開発学の101冊」もあわせてお楽しみください。2008/1/27) New

2000年7月15日作成

2008年1月27日現在

                    

目 次

<第1部>

開講にあたって いま‘開発’を考えるとは (2000715日)

第1講 現場からみた開発 (2000715日)

第2講 開発をめぐる論議 (200081日)

第3項 現状分析の視座をどこにおくのか?(2000812日、2003113日補筆)

補論1:定性・定量のベンチマークの考え方(民俗学の視点)

補論2:宮本常一氏の父(宮本善十郎)の「世の中をみる十か条」

第4講 開発学研究入門(道具箱=ブックガイド) (2000815日)

第5講 学問と現場の違い (2003113日)

第6講 開発‘民俗’学の構想 (2003113日)

第7講 日本における開発と‘人類学(民族学)’と‘民俗学’

2007218日)2005515日着手、2007218日完成)

第8講 残された課題と展開の方向性 2007429

閉講にあたって 果てしなき挑戦 - 今後の課題 - 2007429

<コラム>

コラム1 「実践的」外国語の身につけ方 (2003831日)

コラム2 日本におけるログフレーム導入の歴史 (2005710日)

コラム3 フィリピン‘で’開発を考える (2006215日)

<関連講座のご案内>

開発民俗学・私論および

関連記事の紹介はこちらへどうぞ。

開発学の101冊はこちらへどうぞ。

<第2部>(予告編)

残された課題:

☆ 貧困の定義を考える (社会福祉と開発・援助の間にあるもの)

☆ 誰のための開発?(内発的発展論から参加型開発へ)

☆ ひとびと(現地の人と専門家と第三者(市民))をつなぐべきもの

☆ ‘開発民俗学’のめざすもの ~Over the Rainbow 新たなる挑戦~

2008年11月25日 (火)

宮本常一 『瀬戸内海の研究』 初めの一歩として

まず、というか自分の決意として、えいやあと買ってしまいました^^?

宮本常一 『瀬戸内海の研究 島嶼の開発とその社会形成-海人の定住を中心に』 未来社 1965年初版 2001年4月 復刊 第1刷  定価32,000円

でも、誰が買うんだろう、こんな高い本を!?

宮本常一氏、本人が唯一自分の意思で書いたと語る、博士論文となる約700ページの大書、豊橋の精分館書店という愛知県でも1,2を競う大型専門書店に在庫があるのをみて、清水寺から飛び降りる気で、買ってしまいました。

この本は、以前紹介した『宮本常一 旅する民俗学者』 KAWADE道の手帖 河出書房新社 2005年の木村哲也氏の「宮本常一ブックガイド」の18番目に紹介されているのをみてからずっと気になっていました。木村氏の紹介を引用させていただくと、

「前略 ~ 宮本の著作にしては珍しく、聞き書きがほとんど出てこない。そのためたいへん読みずらく、宮本の著作の中では最も読まれていない作品の一つではないだろうか。

しかし自治体の境界によって分断してしまうと見えにくくなる空間を、「瀬戸内海」と設定してその歴史や文化の全体像を提示しようとする宮本の姿勢は、今もって古びていない。ブローデル『地中海』の紹介以前に、同じ試みを宮本が自力で達成しようとしていたことに驚く。 ~後略~」

私は、ブルーデルうんぬんのくだりに引っかかっていました。

というのは、ちょうど私が大学生の終わりのころ、藤沢書店からフェルナン・ブローデルの『地中海』が日本語の全訳として刊行されだしたころで、アラブ・イスラーム学界というより日本の人文科学学界のどこででも非常に大きく取り上げられていたからです。

手元に学生時代に古本でかった第1巻があります。奥付の記述によると初版が1991年11月、4刷りが1992年3月、一冊で定価8800円で、確か5冊モノの大書が半年で4刷りもされたとは、如何に売れたかがわかるというものでしょう。(ちなみに、古本で6500円)

結局、その後、ブローデルの『地中海』は軽装版もでたりして、そのブームは1990年代を通じて続いたのですが、結局、私としては頭の片隅にブローデルがありという感じで常に気にしつつも全然、一行も読めていません^^?

でもまあ、ブローデルの『地中海』を引き合いに出すとは、木村氏も恐るべし。ブローデルと宮本常一の着目点の鋭さと、その違いについては、別の論客も別のところで触れていますが、確か私のうろ覚えでは、「ブローデルの著作は、ウォーラーステインの近代世界システム論に影響したとか、フランスのアナール学派のみならず、哲学や近接の人文科学分野に大きな影響を与えたが、宮本の‘それ’はほとんど日本においては、網野善彦や鶴見良行など一部の亜流?(正確なたとえは忘れましたが)に引き継がれたのみで、ほとんど学界では省みられなかった」というような主旨の発言を、なにかの座談会で誰かが言っていました。(正確なところは後で調べておきます。)

まあどう考えても宮本氏は学界の主流ではないし、逆に象牙の塔の中の人には想像もつかないところまで‘歩いて’いってしまったことを考えるとまあ、それが順当というか、それもまたよしという気もします。

ともあれ、私には宮本のこの論文があるということで、日本の‘実体’という現場から、私の海洋民俗学の探求も始めていこうと思います。

ではでは^^?

2008年11月24日 (月)

はびこるわたし・・・懲りない奴って俺のこと^^?<歩く仲間アーカイブスより>

かなり以前の記事ですが、ご参考までに、再掲させていただきます。

転職をして確かに失うものも大きかったのですが、それ以上に得るものの方が多かったような気がしています。まだ新しい職場で全然成果を出していないのですが、中途採用にも関わらずかなりの責任のある仕事を任せていただいたり、全く今までの大学生活、仕事人生とは全く違った生き方のあることを知り、日々新しい勉強をさせていただいて感謝あるのみです。

あと、以前から会社という枠組みから外れていたのですが、完全にドロップすることにより新しい自分の可能性に気がついたというか、何か度胸がつきました。、敢えて言えば、「自己責任」ということでしょうか。もう失うものもないし見栄を張ったり格好を付ける必要も余裕もない。素の自分を見つめなおすよい機会であったと思います。

もう8年前にも以下のようなことを書いているのですが、今のほうがはるかに精神的に自由になった気がします。過去を懐かしんで振り返って(涙する)余裕はないというか、もう前に進むしかないということで、しばやんのゼスト(熱意)な日々は今日もまた続きます。

ではでは^^?


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歩く仲間通信 その18 <2001年1月20日(日)>


しばやん@いつも元気です。

お元気ですか。いよいよ、21世紀も走り出しました。

先日、とある勉強会で、しばやんが、会社の名刺でない個人の「歩く仲間」の名刺をある開発援助の専門家の方にお渡ししたところ、

「これは、NGOの名刺ですか?」

「?。。。いえいえ、単なる遊びの名刺です。ははは。」

「。。。?」

そういえば、数年前、会社の上司らと何かの雑談をしていたときのこと。

「そうそう、憎まれっ子世にはびこるっていいますやん。」(しばやん)

「???。。。 それはお前のことや!」

と、その場の全員から突っ込まれたしばやん。

うーん。いつもどこかで、ひとりで勝手に波風(ムーブメント)を起こしてきたような気が・・・。
(下記<主な更新の「地球環境論」とその周辺>を参照)

注:「憎まれっ子世に憚る(はばかる)」が正しいです。念のため。


<主な更新>


昔から体を動かすのが好きでした?

では、今後とも、懲りることなくよろしくお付き合いください。

2008年11月23日 (日)

これから「海洋民俗学」をやります 宣言^^? 

転職も一段落して新しい生活をスタートして1ヶ月半になるわけですが、今、海洋民俗学というものを追究してみようと考えています。

「開発民俗学」は、主に地域開発にかかるフィールドワーク論とまれびと論(チェンジエージェント論)、開発倫理学が主体になると思われますが、それと重複するかもしれませんが、「海から見た世界(像)」というのを別途、研究してみたいと思います。

たまさか、マリングッズを扱う卸売り会社に転身したわけですが、実はしばやんと海との関係は浅いものではありません。

「えっ、しばやんって海の男だったの!?」と以前、友人に絶句されたのですが、実は大学ではヨット部(体育会系)でディンギーレースをやっていましたし、就職後はウインドサーフィンも数年やっていました。もう10年ぐらい前になりますが、結局、仕事が忙しくなりマイボードも手放しましてしまって、直接のマリンスポーツからは遠ざかっていましたが、2000年頃から仕事でも東ティモールやフィリピンなどの東南アジアでの出張や駐在も経て、つくづく私と海との縁が深いものだと感じています。

マリンスポーツに興味があるとはいえ、別に戦績とかレースが好きというわけではなく、海という自然に身をおくこと、つまり海との交歓や海から陸地を考えるということが好きなのです。

そうそう、20年前に、そもそも大学でなにかクラブに入るのにあたって、‘山’のワンダーフォーゲル部に入るか‘海’のヨット部に入るのかを迷ったときから、私の海との付き合いが始まったのでした。

今日、名古屋に行ったのを機に、本屋(丸善)でこの分野の本を漁ったのですが、結構、いい本がでているじゃんということで、ちかぢか「海洋民俗学」という分野にも手をだすつもりです。

今回は、前フリだけに終わってしまいますが、これからの展開をぜひご期待ください。

ではでは^^?

2008年11月20日 (木)

ひとりNGOの勧め -ODA50周年に寄せて- <アーカイブスより>

2004101

ひとりNGOの勧め -ODA50周年に寄せて-

But I’ m not the only one. John Lennon, Imagine 1971より>

最近、特に開発関係の仕事に進みたいという人から相談を受けることが多い。当然、その場で結論をだせないにせよ、本人と直接会って話しをするほうがよいのはわかっている。しかし、必ずしもお互い時間を取れるわけでもないし、このHPをみてのE-mailをくださる方も多いので、とりあえずE-mailで回答することも多い。その質問内容をみると、それぞれいわば生まれも育ちも違うはずなのであるが、質問に一定のパターンがあるようにもみうけられる。ここでは、そんな典型的な?質問に対する私の基本的なスタンスを述べたいと思う。

1.勉強が先か、現場が先か。

すでに大学を卒業して社会人として働いている方からの問い合わせに多くみられるのだが、きっかけはいろいろだが仕事として「開発」に関わりたい、今、実際に働いている分野は、直接、開発と関係ないのだが、将来的に開発の開発専門家としてのキャリアパスを見つけたいのだがどうしたらよいかという質問が非常によく寄せられる。

 

 その背景をもう少し細かく見ると、自分の大学で専攻したことと仕事のいずれもが、自分のめざす開発専門家として求められる資質と違うのではないかというケースと、自分が大学や仕事で専攻した分野での経験を生かして、国際協力の仕事に転職したいのだがというケースの二つに大きく分かれるようである。

いずれにせよ、個人の問題意識を述べられた上で次にくる質問は、何々の分野の専門家になりたいのだが、専攻した(したい)分野を生かすためにあらためて海外の大学院に留学したい、もしくは国際NGOなりでとにかく途上国開発の現場にでたいのだが、どこにアクセスしたらよいかと問い合わせだ。もっとダイレクトに、留学したほうがいいのか現場を先にみたほうがよいのでしょうかという質問だ。

言い訳ではないが、わたしは別に就職のカウンセラーでも何の権限をもっているわけでもないのだが、そうは言っても、せっかく質問していただいた人たちには、大体、次のようなアドバイスをしている。

優先順位

チェックポイント

その理由

自分の好きな分野を大事に。

確かに実務の現場として技術的に求められる分野やこれからはやりそうな分野はあるが、あくまで本人の興味関心にあったことをやってほうがいい。しかしながら、逆に社会人の人はその仕事として経験した分野から大きく離れた分野にいきなり挑戦するのもかなり厳しいとも思う。

自分の好きな世界の地域を選択して、実際に現場に触れてみることがよいのではないか。

ある程度自分の専門としたい分野が決まった人に次に勧めるのは、自分が好きな地域をある程度、絞って実際に現地に行くことをお勧めする。詳細な理由は、後述する。

上記を一言でまとめると、好きな分野と地域をある程度、決めてかかったほうがいいですよということである。確かに、あたりまえのことだ。

当初の「勉強が先か現場が先か」という問題にもどると、私としては、もし時間が許すなら、まず自分の関心のある地域にいって、これは単なる旅行でもNGOのスタディツアーでもなんでもいい、もしその国や地域が気に入ったのなら、その地域や国をベースに、その国で求められている技術やレベルを基準に、自分の学ぼうとする専門性とのフィードバックをしつつ、具体的に、自分のやりたい(勉強したい)ことや、自分の弱点、強みを見出してみるのがよいのではないかと思う。

 私は、某国立大学の外国語学部でアラビア語を勉強したのが、その時に、同窓の友達、先輩をみて、入学当初の言語、すなわち地域の選択が、いかに難しいかということをつくづく感じた。別のところでも書いたが、私は大学地代を通じて結局、卒業するまでアラビア語圏はもとより外国旅行をしなかった。確かに15年も以前のことで通貨価値もちがうし、他の理由もあるのだが、今になって思うと、アラビア語を選んだのは、非常な賭けであったと思う。

幸いにも関心をもって今まで勉強を続けてこれたが、少なくとも私の知る限りの二つの国立の外国語大学では、1年生から専攻言語の授業があり、少人数の蛸壺教育で、1年生から専攻語学の単位がとれないと進級できなかった。つまり、その言葉なり地域なり、もしくは先生にあこがれて入学した人はいいが、逆に、英語や他の言葉をやりたいのだが、とにかく外国語大学に入ってしまえと入学したはいいが結局、専攻語になじめなかった方は、実に辛い思いをしたと思う。

また、最初は関心があってはいったが、実際に現地にいってみたらあまり思ったほど楽しい地域ではなかったという話しを、実に意外なほど多く見聞きした。

当然、こちら側の思い入れも大切なのだが、相手というか言語や地域も、人を選ぶのだ。これは結局、相性としかいいようがない。

 別のところ(歩きながら考える[013])でも書いたが、言葉を学ぶとしたら、英語を中心に、フランス語、スペイン語ができるといいが、それに加えて、私はぜひ自分のフィールドというか好きな国の言葉を学んだらよいと思うのである。どんなきっかけでもよい。たまたまというか、自分の気に入った国があって、それが結果として途上国であるかもしれないが、そこで現地の人と友達になれたら、そこはあなたにとって単なる開発援助の対象でも国際協力の対象ではなく、あなたの友達が住んで生きている現場なのだ。(これでは、まるで『星の王子様』の世界ではないか^^?)

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2.「3つのC」で考える

ちょっと脱線するが、最近、3つのCというものを考えている。これは、いわば気づきの3段階のキーワードを並べたものだ。

段階

キーワード

そのココロ

Conscious, Concern, Care

まず気づくこと。かまうこと。

Collaborate, Cooperate

共に働く(遊ぶ)こと。共に生きること

Commitment, Courage

自分の立場に責任をもつこと。励ますこと

 実は、まだ漠然と考えているだけで、2と3の順番や、どの単語がそれぞれの段階でベストなのかは決めかねているのだが、援助の現場で求められている他者(世界)の認識には、上記のステップがあるのではないか。

 まず、自分とは違う他人に気づくこと。そして、一緒に考えたり遊んだりすること。さらに踏み込んで、例え地球の裏側であってもその他人を仲間として自分の中に位置付けて、一生の友達として自分なりに覚悟をきめること。そんないわば赤の他人を受け入れることには当然、勇気が必要だ。

今の日本の現状をみても、非常に世知辛い世の中ではある。特に、都会では「袖ふれあうのもなにかの縁」などいうことわざは死語と化しているであろう。また逆に、「一期一会」とはいう言葉もある。そういえば「小さな親切、大きなお世話」などというCMが日本の流行語大賞を取ったのは果たして何(十)年前のことであろう。

それはさりなん、逆に今の世のだこそ、‘仲間’の問題を自分の問題として共に考えようとする、ちょっとした勇気が今の世の中に求められているのではないか。

国際協力とか開発援助とかいうと、確かに今では日本の社会において社会的関心も高まり、それなりのステータスというか地位を得ているが、これはそんなに昔のことでもない。また、別にODANGOだけが、この世界を「開発」しているわけではない。市井の本当に普通の人たちの経済活動が、この資本主義(国民国家)世界を現実的に形成しており、世界を回しているのだ。現在の「日の沈まない帝国」とはすなわち「多国籍企業」でもあるのである。

今までの、いやこれから先もずっと先進国は先進国だけでは生きていけないし、逆に途上国は途上国だけでは生きていけない。日本もしかり、決して孤島ではなく、地球上の全ての地域や国と、簡単には目に見えなくても密接なつながりをもって存在している。もう「官」とか「民間企業」とか「市民社会(NGO)」とか便宜的なラベリングをやめようではないか。だって、私たちは、「役人」であったり「会社員」であるのと同時に「家族」の一員であり、たまには「市民活動(NGOなど)」に参加したりしている、普通の人たちではないか。ひとりひとりが、いろいろな仮面を持って、この現実社会に実際に生活しているのである。

 最近、大学の中国の地域研究をしている恩師と開発についてE-mailでやり取りすることがあった。ちょうどその私の返信の中に、まさに今の私の心境を表している一文があるので、以下に転載させていだたく。

「  ~前略~ 私のHP上でも、いろいろ紹介しているように、若い援助に関心のある仲間は、本当に自然体で「開発援助」を考えていると思います。今、この文章を書きながら、たまたま、ふと思ったのですが、私にとっては、この援助の仕事も、ある意味「遊び」でやっているところもあるし、なにより”援助”される人を、私は「友達」というか「仲間」として認識していることに、あらためて気がつきました。

たまたま、生まれや育ちが違うだけで、本質的には、同時代を共有している仲間じゃん。 実は、2年前にフィリピンに出張にきたときにパナイ島のイロイロで知り合った国家灌漑庁の灌漑事務所で働く女性の友達(歩きながら考える[019]を参照)から2年前に、「Mr.Shibataは、他の日本人と全然ちがう。30パーセントが日本人で、30パーセントがフィリピン人で、後の40パーセントは、何人だかわからない。」とコメントされておりますので、とても私が標準的な日本人とは思えないのですが、ただ、私が日本で「若手会」と称してつきあっていた日本人の仲間は、ある面、同じような思考パターンをもっていました。彼女達とは、駐在してからも出張を絡めて遊びにいって今でも仲間としてたまに連絡をとりあっています。  ~後略~  」

以前、開発教育を語ったとき(歩きながら考える[013])にも述べたが、日本のことと、英語圏のことと、そしてもうひとつの定点観測をすべきフィールドをもつこと。つまり、三角検証(Triangulation)できるようなポジションに自分を置くこと。特に海外に一生つきあっていけるような仲間を持つことが、大切なのではないか。

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3.ひとりひとりずつの花を咲かそう

 一昨年であろうか。人気グループ(スマップ)の歌で、「世界にひとつだけの花」という歌が日本で大変はやった。うろ覚えで申し訳ないが、「Number One でなくてよい。Only One でよい。世界でひとつだけの花を咲かせよう」という意味の歌詞であったと思う。実は7年ほど前に同じような言葉を聞いていた。1997年の日記の「今年のはじめに」の欄にこんなことを書いていた。

「・・・今年は一歩進めて地域社会に生きる。普通の人々のなにげない生き方に共鳴し、共感する。そんな人の間で生きてゆくことに心をそそぎたい。昨年末(1996年)のテレビで見た海援隊ライブで、武田鉄矢が恩師の言葉として引用した言葉「折れたるは折れたるままに、小さきは小さきままに咲くコスモスの花」にあるように、物事をありのままにうけとめ、決して自分の尺度で計らずに、皆がそれぞれの立場で花を咲かせる、輝けるような一年に今年はしたい。」

それぞれの人たちが、それぞれの立場でプライドを持って生きていけたらどんなにか素晴らしいことかと思う。

今、開発援助業界は、日本に限っていえば、とてつもない買い手市場で、競争も激しいときく。特に、すでに社会で働いている人にとって、隣の芝は青いではないが、なにかとても崇高な‘社会貢献’をしているようにみえるかもしれない。しかし、ちょっと待ってほしい。公務員であれ民間企業であれ、自営業であれ社会人として社会のため人のために働くということは、それぞれが貴重で大切なことだと思う。

私は、途上国でも日本でも、路上で日々の糧を得ようと手を伸ばす人たちにコインを渡すようなことはしない。なぜならば、私は日々の実践として、これらの貧困やよりよい社会を築くために闘っているという自負があるからだ。

別に‘開発援助’の現場に働くことだけが人生ではない。それぞれの立場で、よりよい世界を目指してがんばることに意味があるのだと思う。観光旅行でもいい、NGOのスタディツアーでもいい。自分の足で歩いて自分で良かれと思うことを実践する。ちょっと問題意識をもって、世界のさまざまの土地に生きる生身の人々と対話を始める。それぞれが、ほんのちょっとだけでもお互いに‘よい想い’を共有できたらそれだけで十分な国際理解であり‘開発援助’ではないか。

「歩く仲間通信[018]で冗談みたいな話しとして語ったが、会社や組織の一員というだけではない、自分で考え自分で動ける自分というものを持つこと。すなわち、「ひとりNGO」という生き方を提唱したい。

これはいわずもがなのことであるが、単なる帰属集団や体制批判でもないし、社会に背を向けて勝手なことをやるということではない。あくまで社会の中の自分というのを踏まえた上で、‘自分’を語ってよいのではないかという、ささやかな独立宣言の勧めである。

2004106日は、日本が戦後コロンボプランに参加して50周年、つまりODA50周年となる。例年のごとく、10月の第一週の土日の2日間、すなわち2004102日、3日と東京の日比谷公園で、「国際協力フェスティバル」が行われる。残念ながら、私はマニラで参加できないが、関東近辺の方は散歩がてら足をのばしてみたらいかがであろうか。

国際協力フェスティバルの主宰者によるホームページは、以下のとおりである。


http://icf.visitors.jp/

やはり、何をやるにも、「旅は道連れ、世はなさけ」である。歩く「仲間」とのよき出会いを。

この項 了

2008年11月12日 (水)

宮本常一+案渓遊地 『調査されるという迷惑 フィールドに出る前に読んでおく本』

出版直後に見かけてはいたのですが、ようやく購入しました^^?

 

Cci20081112_00000 宮本常一+案渓遊地

 

 『調査されるという迷惑 フィールドに出る前に読んでおく本』

 

みずのわ出版、1000円

 

2008年4月

 

お薦め度: ★★★★★

 

一口コメント:

 

学術的なフィールドワーカーのみならず地域研究や開発援助に携わる人(特に日本人)は必読。

 

ロバート・チェンバースを読んで感動している場合ではない。

 

という2つ目のセンテンスは極論ですが、開発コンサルタント(社会開発)のひとりとして、特に開発途上国の開発に携わるコンサルタントなどの実務者に限らず、いわゆるお上の人にも読んでいただきたい一冊です。

 

A5サイズで、事項索引を入れても、わずか118ページのブックレットですが、その訴えるテーマは古くて新しいというか、ずばり「開発倫理」の本です。

 

歩く民俗学者、歩く仲間の大先輩の宮本常一氏が、1972年に、『朝日講座・探検と冒険 7』に著した小論「調査地被害-される側のさまざまな迷惑」(のちに未来社版 『宮本常一著作集 第三一巻に、「調査地被害」として再録)を第2章に全文を引用して、直接、宮本氏から指導を受けたフィールドワーカー(研究者)である案渓氏が、日本の南の島々でのフィールドワークで体験(経験)した、今なお続く調査地被害、特に調査‘される側’の声をふまえて考察した論文を再録しています。

 

なお、宮本氏の「調査地被害」という論文については、『歩く仲間-歩きながら考える世界と開発』のブログ(HP)の中で何度も取り上げておりますので、私の立場と理解についてはこちらを参照ください。

 

>われわれの物語を紡ぐために: 文化人類学への問い。(2005年7月3日)http://arukunakama.life.coocan.jp/n00028.htm

 

>文化人類学の1990年代を振り返る  (2005年7月3日)http://arukunakama.life.coocan.jp/n000281.htm

 

>ブームの宮本常一?  (2006年4月1日)http://arukunakama.life.coocan.jp/n00030.htm

 

>人類学者の皆様に ~援助の‘効率化’って何?~ (2007年2月10日)http://arukunakama.life.coocan.jp/blog051.htm

 

>人類学者の皆様に(補足1) ~援助‘する’側、援助‘される’側の認識について~ (2007年2月18日) http://arukunakama.life.coocan.jp/blog052.htm

 

>実務者不在の議論(その1) (2007年4月14日)http://arukunakama.life.coocan.jp/blog063.htm

 

>実務者不在の議論(その2) (2007年4月14) http://arukunakama.life.coocan.jp/blog064.htm

 

実は、3月に日本に一時帰国して、大型書店で平積されたこの本をみたとき、宮本氏の論文の再掲ならば、わざわざ買う必要もないと思ってあえて購入しなかったのですが、今回、案渓氏の論文を読んで、‘いまだに’調査地被害が、日本で続いていることに暗然たる気持ちになりました。

 

上の私の論考でも触れていますが、今の開発援助に関心のある勉強しているはずの若い人たちの間でも、本多勝一の「殺す側の論理」と「殺される側の論理」の議論についても知らない人が多い。既に時代遅れの二項分類ともいわれていますが、これは、ロバート・チェンバースのいう「アッパー」と「ローワー」の議論と同様以上に重要な概念だと思います。

 

ともあれ、人文科学を目指す人のみならず、広く(地域)社会に関わろうとする人たちは必読の小冊子です。

 

そうそう、蛇足かもしれませんが、一言で上記の問題を語れば、

 

「人として」ということではないのかなとも思います。「倫理」と大きな声でいうものではなく、人の迷惑や痛みを考えることとは、人として当たり前のことでもあります。

 

それを「学問」や「開発」のためというのを錦のお旗というか言い訳にするのは、どうしたものかと思いますね。あなたも私も社会に対して‘上から目線’になっていませんか。自分への戒めとして^^?

 

P.S.

 

別のところでも書きましたが、宮本氏のフィールドワーク論(方法論のみならず倫理を含む広い意味での)を編集した『旅に学ぶ』は、フィールドワークに関心を持つ人はぜひ手元において味読していただきたい論集です。

 

Cci20081113_00000

 

宮本常一 『宮本常一著作集 旅に学ぶ』 第31集

 

未来社 1986年 2800円

 

お薦め度: ★★★★☆

 

一口コメント:

 

ちょっとお値段が高いのがキズですが、どれを読んでも氏の鋭い視線を感じます。現場で何をみればよいのか。

 

「あるく みる きく 考える」は氏のモットーでもありましたが、フィールドワーカーである『歩く仲間』の必携書ともいえるでしょう。

2008年11月11日 (火)

プロデューサーになりたい^^!

つぶやきしばやんということで、ちょっと妄想ですが^^?

今朝、通勤で車を運転しながら、ふと考えました。開発コンサルタントから足を洗った?しばやんは一体、どこへいけばいいのだろうか。これから何を目指すべきなのだろうか。

当然、日々の生活、なにより新しい生活に慣れ、生活基盤を再構築するのが緊急の用ではあるのですが、ちょっと欲目がでたというか、その先も考えたいというか、何を基準に、何を生きがいに生きていけばいいのかだろうかと、ふと思いました。

「MCしばやん」、「歌って踊れるコンサルタント」。それはそれで今でもとても大切なことです。でも、ちょっと若かったなあ^^?

とりあえず思いつく肩書き?を並べてみると・・・。

「世間師」: これは重要。でもこれだけだと、漠としているし、全然具体的ではない。

「MC=マスター・オブ・セレモニー」 : でもこれってセレモニーの主催者でもゲストでも出席者でもないんだよなあ。

「コンサルタント」: どうしても外部者という響きがする。開発コンサルタント、経営コンサルタント、いろいろなコンサルタントはありますし、とても大切な仕事とは思いますが、現業の世界に身をおいてみると、どうもそのよそよそしさというかクライアントに対するコンサルティングに徹せざるを得ないというところに、その限界みたいなものを感じてしまいます。論語読みの論語知らずというか結局、当事者になりきれない、とふとそんなことを感じます。

「プロジェクトマネージャー」: 俗にいうプロマネ、開発コンサルタントにおけるプロジェクトマネージャーの重要さについては、自分も内部の人間としていくらかは知っているのですが、これは、その語のとおり、「プロジェクト」という枠組みがあった中での、そのプロジェクトのマネージャーなのですよね。プロジェクトの枠組みをつくる仕事ではない。

「ディレクター」: 日本語でいうと監督(ディレクター)ということですが、これもプロマネと同じく枠が必要でその枠内で、ディレクション、つまり指図を出す人ということ。そうそうダイレクターというと会社においては取締役ということで、経営者というか経営の責任を取る人。でもこれは必ずしもその会社のオーナーということではありません。つまり、これもまた枠があった上で権限を与えられた人って感じがする。

こう考えてみると、自分の今の関心は、別に「MC」でも「コンサルタント」でも「プロマネ」でも「ディレクター」でもないような気がします。

ということで思い浮かんだのが、「プロデューサー」ってところで一体、何をやる人やねん^^?

「プロデュース」、って単純に考えると、生み出すこと。「プロジューサー」って多分、何かを創り出す人。無とかゼロからとはいわないものの、何もないところから企画して道筋をつけて夢や希望を具体的な形にしていく人 って感じがする。

たとえば映画業界、監督(ディレクター)も偉い?が、実はプロデューサーが一番大切という話をどこかで聞いたことがあります。まず企画して予算を集めて、監督を決めて、俳優を集めて(配役は監督の仕事かなあ)、ロケハンの手配をして、プロジェクト全体のコーディネートの仕事がメインだとは思いますが、単なる「コーディネーター」ではないと思います。

そうそう、「コーディネーター」、これも非常に重要で大切な仕事です。でも、このコーディネーターも、枠を与えられた人のような気がする。元職からすると、なんとなくコーディネーターってプロマネの下でやりくりする人というイメージが強い。「裏番」とか「影のプロマネ」という言い方もありますが^^?

ということで、なんだかまだよくわからないけど、「プロデューサー」という生き方を模索してみようかなと思います。

とりあえず取り組むべきは、セルフプロジュース。つまり、‘しばやん’ブランドの確立でしょう。

そうそう、やはり自分がやりたいのは、自分で‘道’を作ること。企画して、モノにしていく。他人から与えられた枠組みの中だけで生きていける人ではない。たぶん、きっと。

夢や想いを具体的なかたちにしていく。そのためには何を実行すればよいのか。

その模索の先に何があるのかまだわかりませんが、日々、具体的な‘何か’を生み出していきたいなあと思います。

ではでは^^?

2008年11月 8日 (土)

身辺整理?

が何時まで続くかということですが、ようやく身の回りも落ち着きつつあります。

フィリピンからダンボール箱30箱をかかえて(実は船便)帰国して、東京で家捜しをして落ち着く間もなく転職Uターン。

6月30日に帰国してから、本当にあっという間に5ヶ月目。6月に帰国する際には、まさかこんなことになるとは夢にも思っていませんでしたが、9月末に東京を引き払い、10月1日から実家の近くで働きだし、ようやく1ヶ月。

引越しで、また東京から愛知へ荷物を送り出して、車は買いいの、まったく360度違う(こりゃ同じだ)いや180度違う仕事について、ともかくも1ヶ月。

なんとか無事に自動車通勤ができるのも、仕事にがんばれるのも、周りの皆様の理解と協力があっての賜物。やはり、まずは一番身近な家族に一番感謝ということでしょうか。

東京から愛知に戻る際に、開発関係の本は知人にまとまって引き取ってもらい、アラブ・イスラーム関係も整理して、そのうちまとまってどなたかに寄贈するつもりです。

仕事とは別に続けていきたいのは、①開発民俗学、②海洋民族学かな^^?
地域というか地方からの発信は前者①については十分可能であると思うし、海外業務の総括というかフィードバックにも取り組みたい。後者②は、実はマリン関係の仕事に転職したので、まったくの趣味ではなく取り組めそう。

ちょっとずつではありますが、体勢を立て直してこれからもがんばって生きたいと思います。

今思うのは、あまり手を広げてしまっては全然収束しない。

捨ててこそ浮かぶ瀬もありというか、開発援助とアラブ・イスラームを捨てた自分に何ができるのか、自分でもわくわくしています。

どこにいても、しばやんはしばやん、自分の途を歩むのみ。

これからもよろしくお願いいたします。

ではでは^^?

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フィリピン・ファン