広島大学総合科学部編 『シンポジウム・ライブ 総合科学!?』 → 近代学問の限界を考える
初出: mixi開発民俗学-地域共生の技法- トピック 「越境のアドベンチャー」 ‘開発民俗学’は‘総合科学’たりうるか?<各論> 2011年7月30日
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=63493101&comm_id=2498370
------------------------------------------
○広島大学総合科学部編 阿部謹也、瀬名秀明、長谷川眞理子、佐藤正樹、加藤徹 『シンポジウム・ライブ 総合科学!?』 叢書インテグラーレ001 丸善 2005年
シンポジウムの講演を文字におこしたものなので、それだけでもわかりやすい本といえるます。佐藤学部長の基調報告「二十一世紀の文明と環境-「総合科学」の課題と可能性」から始まり外部の3名の講演が続くのですが、全体として(結果として)それなりの‘総合科学’のあるべき方向性を示しているところがすごいと思います。
読んでいて気になった言葉を紹介します。
佐藤報告より:
・ブルクハルトの言葉「ディレッタント(物好き)になれ」
・「一人総合科学」と「協同総合科学」で研究を同心円状に拡げる
・若き学生は「重点的ジェネラリスト」というスペシャリストたるべし
瀬名報告より:
・学問の醍醐味は「実装すること」
ロボット学が総合科学に示唆してくれるものとして、工学でいうところの「実装(implementation)という概念がある。「これは装置に新しい部品を組み込んだり、ソフトウェアに新しい機能を盛り込んだりすることを指す用語ですが、もっと工学的な立場でいえば、抽象的・観念的なものを具体的なシステムとしてつくり、機能を実現させていくことなんですね。」(p100)しかしこれは他の学問でも同じ事なんじゃないか。「「総合科学」には、ひとりひとりの研究者が誇りをもって、しかも自分の研究成果を社会に対して実装してゆくことが重要なのではないか。」(p102)
長谷川報告より:
・科学の根底にある哲学を理解せよ
・少数の原理で自然を統一的に説明する
・科学という強力な世界観
・科学で何をするかを決めるのはわれわれ
・科学そのものは価値観ではない
・古典的教養と科学的教養を併せもつ
全体を読んで思ったこと。
まあ、べたな言い方ですが、自分が何(特に学問として)をやっているか、どういう‘世界観’に基づいたものなのかを自覚して学ぶということと、文系や理系などという区分には意味がない、少なくとも西欧発祥の学問は、ひとつの価値観に基づき組み立てられている。阿部報告の中で12世紀のフランスのサン・ヴィクトールのフーゴーの『ディダスカリコン』という学習論とでもいうべきラテン語の本にある学問観についてふれているのを引用すると。
「彼(フーゴー)の時代の学問というのは哲学ですが、哲学がいちばん物事の最初に来る学問で、その哲学が四つに分かれると。思弁学と実践学と人工人造学と論理学。思弁学は神学と数学と自然学に分かれていく。実践学というのはさまざまな学問、現在の学問で言えば、経済学、財政学、公共学とか家政学とか論理学とかさかざまなものに分かれていき、論理学は文法学、記号論、論証理論、そして思弁学は算数、音楽、幾何、天文学、天井の音楽と人間の音楽と器楽、さらにさまざまなかたち、人工人造学から兵器学、商学、農業、狩猟、医学、演劇、あるいはパンをつくる技術その他のものに分かれていく。」 (p43)
「そしてそこで言っている大事なことは、学問というのはつまり一つの分野を極めていったときに、すべての学問に通じているということにならなければ意味がない。(中略)では、全部の学問をもし身につけたとしたらどうするかという質問をだれかがしたとすると、彼は古靴直しをやればいいんだと。古靴直し、あるいは陶器つくりの修行をすればいいんだと、こういうふうに言っている。」 (p44)
ここで問題は、分けて考えるという‘ヨーロッパ流’の学問の実態(出自)とその限界です。開発民俗学で考えるホーリスティックアプローチでは、現実・現物を、‘そのまま’理解することから始めたい。つまり現物から、それをどう分析するのかを考える。これは細分かされた‘既存’の学問分野を、再構築するのではなくて、現物にあわせて分析方法自体を考えるというアプローチです。
いや分析自体が不要であれば、それはそれでいいのかもしれません。
フーゴーの学問論の最後のオチがスゴイと思いませんか。つまり、古靴なおしや陶器つくりのマイスターとでもいうのですが、全体を‘体現’してしまった‘人(間)'になってしまえば、学問そのものが成立たなくなるというか、‘この人をみよ’で済んでしまうということなのですから。なんという究極の‘逆説’なのでしょうか^^?
ともあれ、阿部謹也がいう「ヨーロッパの学問はインテリと非インテリを峻別した」ことが、‘学問’の世間からの‘乖離’というか‘不毛’を象徴していると感じました。
つまり、開発民俗学は、‘学問’を‘(日常)生活’に取り戻すための運動っていえるんじゃないかなあ、いや、そういうものとして鍛えていきたいと思いました。
なんとなく、散漫な文章になってしまいましたが、‘世界観’の上に、すべてが組み立てられている。中国やインド、中近東など古くから文字があり歴史のあるところには、必ず‘世界観’があり、その世界観に基づいた‘学問’体系があってしかるべき(実際あったと思う)なのに、それが、今の少なくとも学校教育では表にでてこないというか、自分達がどのような‘世界観’に基づく学問や教育をやっているかを自覚していない。
ここの日本の学問の弱さがあると思う。
自分が立っている土台、つまり足元を正しく理解して自覚するということから21世紀の総合科学?は始まるということをこの本を読んで感じました。
そこに開発民俗学の生きる道があると思います。
ではでは^^?
この項 了
« 林周二 『研究者という職業』 東京図書 2004年 | トップページ | 国際協力や開発援助関係者が東日本大震災でできること<その1> »
「開発学の101冊」カテゴリの記事
- 穂坂光彦 『アジアの街 わたしの住まい』 明石書店 1994年12月 <現代の研究者、実践家の紹介コーナー>(2011.09.03)
- 川喜多二郎 『環境と人間と文明と』 古今書院 1999年6月(2011.08.21)
- 「巨視的な研究」と語った真意について <補足>(2011.08.15)
- 小森陽一監修 『研究する意味』 東京図書 2003年5月 <研究者への途>(2011.08.15)
- 広島大学総合科学部編 『シンポジウム・ライブ 総合科学!?』 → 近代学問の限界を考える(2011.07.30)
コメント
« 林周二 『研究者という職業』 東京図書 2004年 | トップページ | 国際協力や開発援助関係者が東日本大震災でできること<その1> »
英米人の脳裏には、現実の世界があると同時に、非現実の世界観 (world view) がある。
現実の世界を現在時制の内容で表現すると、非現実の世界は未来時制の内容として表現できる。
現実の世界と非現実の世界は、英語では一対一の対応がある。
そして、現在時制の内容に対応した未来時制の内容が過不足なく考えられる。
真実は現実の中にある。が、真理は考え (非現実) の中にある。
現実は真実である。現実の内容として述べられる非現実は嘘である。
時制がなく、現実と非現実の区別がつかなければ、本人は嘘ついてるという自覚はない。
話の内容が現実離れしていることに違和感がない。
現実の内容は五感の働きにより得られるが、非現実の内容は瞑想により得られる。
現実の世界が過不足なく成り立つように、考えの世界も過不足なく成り立っている。
もしも、考え (非現実) の世界に矛盾があれば、それを見つけて訂正しなければならない。
自他が協力して構想の中の矛盾を丹念に淘汰すれば、非現実の世界は現実の世界と同じ広がりと正確さをもち、場当たり的な発言の内容とはならない。
日本語脳は、非現実の内容を脳裏にとどめ置くことができない。
それは、日本語には時制がないからである。
日本人は常に実を求めている。現実にとどまることのみを信じている。
日本人の考えは、現実の外に出るものではない。
現実を現実の外にある理想に導くものではない。
西遊記に出てくる孫悟空は、自己の有能さに得意になっていた。だが、釈迦如来の手のひらの中から外に出ることはできなかった。孫悟空には、世界観がないからである。
英語の時制を使うことができない英米人は、子供のようなものである。
だから、非現実の世界を考えることができない日本人は、12歳の子供のように見える。
考えがなければ、議論ができない。
日本では「議論をすれば、喧嘩になります」と言われている。
意思は未来時制の内容である。
時制が無ければ、恣意となり、その思いは公言にもならず宣言にもならない。
物事の決着は、談合により行われる。
そこには、公言も宣言も必要でない。
意見を述べようとすると「理屈を言うな。理屈なら子供でも分かる」と言って相手にしない。
もっぱら恣意と恣意のすり合わせを行って決着する。いわゆる、どんぶり勘定である。
和をもって貴しとなすためには、金を配るしかない。これも馬鹿の一つ覚えか。
現ナマは、現実の内容であり、日本人には信用の証となる。
究極の人生目的は、狭義の自己利益・金を得ることにある。
国内では、学閥など序列を作って自己利益を確保しようとする。それで、忠義が尊ばれている。
人間が縦一列に並んで他を入れない密な人間関係である。
序列作法の励行により、序列の外に出られない島国根性が植えつけられる。だから、玉砕を覚悟する。
国内においても、国際社会においても、日本人は金を配って存在感を示そうとする。
これもひとえに社会の中での序列順位向上のためである。
だが、日本人は内容のない発言により信用を失うことが多い。
それでも、日本人は人類のために貢献している。
だが、その貢献の仕方は、発言のない家畜が人類に貢献するのと似たところがある。
http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812
投稿: noga | 2011年7月30日 (土) 10:27