図書館・古書検索システム

しばやんが運営管理するブログなど

HP版・歩く仲間へのショートカット

無料ブログはココログ

« 歩く仲間通信 2011年7月13日 <歩く仲間> | トップページ | 林周二 『研究者という職業』 東京図書 2004年 »

2011年7月27日 (水)

今、改めて大学院への進学を考える!

mixiの「開発民俗学-地域共生の技法-」のコミュニティで、大学院進学についてのトピックを立てました。

研究(者)への途~進学相談室~ <各論>

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=63702552&comm_id=2498370

そこに、こんな記事を書き込みました。

-----------------------------------

最近、いろいろ自分を振り返ってみると、約20年前に大学4年のときに就職活動もせずに思い立って大学院進学を考えたという話をなんどか書いていますが、もう一度、なぜその時に‘失敗をした’のかを考えてみたいと思います。

端的に言うと…。

結局、なんのビジョンもなかったということに尽きるのでは!といってしまうと話が終わってしまうので、なぜ進学を断念したのかを、冷静に考えてみます。

私は小学校の5年生のときからボーイスカウトをシニアだから高校生まで続けていたのですが、ずっとお世話になっていた隊長さんに、実は大学院浪人時代に悩み相談というか進路相談というか、急に思い立って地元に会いに行きました。(当時、京都に下宿していた。)

その時にいわれたのが、「(京都大学の)院なんかに入ろうとしている人は、最初から大学に入学するときから、そこまで見据えて狙ってきているのに、にわかに勉強しても勝てっこない」といったような趣旨の話でした。

自分としては、確かに1992年の湾岸戦争でエジプト留学が流れていわばやけ?で進学しようと急に思い立ったわけで、大学時代の成績も全然よくなかったし、そもそも、大学進学時に、浪人してでもなんとしてでも(京大に)入学して大学院に進学するなんてビジョンも根性もなかったので、それもそうだと思って、就職活動に力を入れたのでした。

今思うと、この展開、おや?という気がしないわけでもありませんが、ただ、その当時、30歳代半ばか40歳くらいの‘大人’だったボーイスカウトの団長さんの言葉に、現実に心を動かされたし、実際にそのアドバイスにしたがってよかったと今では思います。

なぜか。

やっぱり結局、単なる思い付きだったんですよね。京大の文学部の西南アジア史って、結局はイランとかトルコは強かったけどアラビア語そのものを扱うわけではなかったし、もう少し正確にいうと、歴史研究は必ずしも原点資料が読めなくてよいというか、英語やフランス語などの欧米の研究成果をふまえた上で、歴史学のディスプリン’にしたがって論文を書けばよいのであって、アラビア語の原典で読めるに越したことはないけれど、‘別に英語やフランス語の翻訳で読んで‘歴史’を書けばよいということなのです。(かなり乱暴な話ですが)

また確かに歴史学の‘ディスプリン’そのものを学びなおすのであれば、大学生3年生くらいから編入学したほうが、まわり道に見えて実は近道であったし、そんな歴史の‘れ’の時も学んでいないものが、歴史で論文を書こうとすること自体が無謀なことなのでした^^?(確か、このことも、ボーイスカウトの隊長さんも言っていました。)

それと実際に、西南アジア史の研究室に聴講生として通ったわけですが、現実にスゴイ人たちばかりで、学部の3,4年生の人たちも進学を考えている人の何人かと友達になりましたが、確かに男の子で進学希望の人は、どうしてもめざす先生がいて浪人してまでも京大の門をくぐり、実際に入学前からやりたい‘なにか’を持っているようでした。

確かに、こんなに高い‘目的意識’を持った人に、私みたいなポット出な気まぐれな挑戦者が勝てるわけがない(入試&定員がある)とは、さすがに向こう見ずの私も、5月か6月になったら気がつきましたね。

あと自己弁護ですが、実は、その当時、アラビア語の地理書とか旅行記をやろうと漠然と考えていたのですが、これをまともに教えることができる私の関心にある分野の研究者は、実は大阪外国語大学(母校)の竹田新先生と、東京外国語大学のアジア・アフリカ言語文化研究所の家島彦一先生しか!いなかったわけです。

また、どの大学でどんな先生がいて、どんな学風で研究・教育が行われているのか、全くその当時の私は知りませんでした。全然、自分が行こうとしている世界がどんな構造で、どんな人(達)がいるところなのか、どんな研究(学習)環境なのか、全く調べていなかった。こんな準備もなしで、行き当たりばったりでうまくいくはずがありません。冷静に考えるまでもなく!

確かに、文系で大学院に進んだら食べていけないといわれていた時代ですから、いつまでも親のすねをかじるわけにもいかないし、京大の大学院生の先輩が結構、まじめにバイトをしているのをみて、好きなことをするために自分の時間をつかってバイトする(たとえば中高生の家庭教師といっても全然、自分の研究には関係がない)のは、なにかいやだな。やはりやりたいことに一番時間を使いたいというのもあって、やっぱりやめておこうということになりました。

さいわい紆余曲折はあったものの、開発コンサルタント会社に就職できたのは、やっぱり奇跡というか運がよかったとしかいいようがありません。すてる神があれば拾う神があるというか、今思うと、本当に自分の意思というより他人に拾われた人生でした。

まあ、どう言いつくろってみても、所詮、負け犬の遠吠えでしょうが、結局、就職に舵をきった決め手は、母親の「勉強なんてどこでもいつでもできるで」という言葉でした。

職業研究者だけが研究者ではないというか、好きな人はどんな環境にあっても勉強や研究を続けて、それなりの成果を出しています。

そうそう、その時に私は「自分は野に下るけど、決して学問のための学問はしまい」と幼心に誓ったのでした。

まあ、結果として、「開発援助」という全く違ったフィールドで経験も積めて、今はドロップアウトしたおかげで、それほどノルマもなく、自分の人生へのリベンジの作戦が練れる。これは、千載一遇のチャンスです。

もう、この今の時点でやるしかない、ここでチャンスを逃したら私の20年間のまわり道が無駄になってしまう。ここで博士をとりにいくしかないなというのが、今の偽らざる心境です。

そこそこ仕事も忙しいのに、なぜそこまで思いつめるのか?

自分にもわかりませんが、結局、(自分の)本職をまっとうしたいというか、仮に(自分の)能力とでもいえるものがあるとすれば、(自分が)一番好きで自信の持てる分野でその力を発揮すべきだというのが今の私の信念です。

とりあえず他者の評価はおいておいてね!(← 脇というか詰めがあまい^^?)

ということで、研究者への道を模索していきたいと思います。

ではでは^^?

P.S.

最近、‘大人’ぶる人が、物知り顔に、「できることとやりたいことは違う」といろいろなところでのたまわっていますが、私は、そんな言葉は、本人が気付けばよいことで、わざわざ若者に‘助言’する必要はないと思います。

みんなそれぞれ(の立場や年齢で)悩んで転んで心に血を出して自分の限界を知った上で、生きていくのだし生きてきたのだから。

そんな言葉より、若者の不安を取り除き、自分で勝手に思い込んでいる天井や障害を取り除く方向で励ましてやるのが‘大人’の務めだと私は思います。

ではでは^^?

« 歩く仲間通信 2011年7月13日 <歩く仲間> | トップページ | 林周二 『研究者という職業』 東京図書 2004年 »

大学院への道^^?」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 今、改めて大学院への進学を考える!:

« 歩く仲間通信 2011年7月13日 <歩く仲間> | トップページ | 林周二 『研究者という職業』 東京図書 2004年 »

フィリピン・ファン