「巨視的な研究」と語った真意について <補足>
前項の補足です。
小森陽一監修 『研究する意味』 東京図書 2003年5月
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/20035-0b10.html
誤解のないようにつけたしですが、金子氏も、「いまはディテールを知ったうえで学会の壁を突破する力がなければ、大きな枠組みを語れないのです。」とディテールの重要さを強調していますが、私も100%同意です。
私が「巨視的」というのは、‘ディテール’を欠いた大雑把とか抽象的なという意味ではなく、‘ディテール’にこだわりつつも、(世界)全体の中での位置づけを考えながらやりたいということで「大きな枠組み」を語る‘野心’は毛頭ありません。
宮本常一先生がモノグラフ(民俗誌)を50本くらい書きたいと若い頃に志したように、私も具体的な事例にこだわりたいし、なによりも片倉もとこ先生の「平の人」のことを「大文字でなく」語りたいのは、鶴見良行さんや鎌田慧さんの系統を自負するからこそ、でも前嶋信次先生みたいな‘ロマン’を語りたいし、家島彦一先生みたいな地道で世界を股にした実証研究から「パラダイム」そのものをひっくり返したい。
なんだ、結局、「大きな枠組み」への野心はあるじゃんということですが、それはめちゃくちゃ難しいことでしょう。時空を超えるだけの力量が必要で、今の時点では自分にそれだけの力は全然ないし、死ぬまでにどこまで研鑽できるのか、ただスケールの大きさということでは、家島先生は当面の目標というには遠すぎでも頭の片隅に忘れてはいけないことだと思います。
‘歩く’、‘見る’、‘きく’だけではダメ(不十分)で‘読んで’‘書きまくる’。これが上記の私が尊敬する先達の生涯を通じた生き様というかスタンスであった。
まあ、どこまでやれるのか、とはいえ「開発民俗学」を旗揚げしてしまった以上、討ち死にするまでやるしかないのでしょう。
どこかの誰かが屍を乗り越えていってくれることを信じて。
ではでは^^?
参考:
Giant Steps! 巨人達の足跡 HP歩く仲間 2001年2月25日現在
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