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2013年3月の4件の記事

2013年3月23日 (土)

歩く仲間通信 いつやるの! 今でしょ^^? 

みなさん


お元気ですか。 歩く仲間のしばやんこと柴田英知です。

最近、マイ名刺のタイトル(肩書)を「地域活き生きアドバイザー」から「国際開発コンサルタント<社会開発(社会・自然環境配慮)>/地域活き生きコーディネーター」にマイナーチェンジ?しました。

思えば会社の名刺とは別に「歩く仲間」の名刺を持つようになって、もう15年近くになります。そして、開発民俗学なるものを提唱しだして10周年。思えば遠くへきたものです^^?
 
さて10年一昔とは申しますが、20年来の恩師の訃報という、まずは悲しいニュースから。

ご存知の方も多いと思いますがイスラーム研究者としてより女性の文化人類学者として高名な片倉もとこ先生が、2013年2月23日に永眠されました。実は大阪外国語大学時代の恩師が、片倉先生と共同研究に取り掛かったとの話を2~3年前に聞いていたので、この先生伝いに片倉先生の風の便りを聞いており、近年、体調が優れないことも知っており、正月にもずっと闘病していることを聞いてはいたので、訃報に驚きはしましたが、それなりに心の覚悟はできていました。

私と片倉もとこ先生とのかかわりの始まりは、もう20年以上も前のこと、確か大学時代アラビア語専攻の2回生の時に関西学院大学で行われた第5回日本中東学会のときに運営の手伝いに参加させていただいたときに初めてお会いしたと覚えています。

確かそのときも白いジャケットとパンツをはいていたと思います。というのは、公的な場所ではいつも白いジャケットとパンツを着ていたという思い出しかないからです。

当時、先生は大阪は吹田の国立民族学博物館の先生をしていて、ずいぶんと軽く?「研究室に遊びにいらっしゃい」と声をかけていただきました。結局、その後、大学生時代に研究室に伺ったかどうかは忘れてしまったのですが(確か行ったはず)、その後、なんだかんだで、日本中東学会をはじめとするイスラーム関係の研究会や講演会、中央大学の市民向けのセミナーなど、日本のいろいろなところで先生の謦咳にふれることができました。

もう10年以上前になると思うのですが、東京の何かのセミナーでお会いして懇親会を終わった後の帰り道で、「本を出しなさい。出版社を紹介してあげるから」というような話をした記憶があります。

結局、その場の立ち話で終わってしまったのですが、自分でも開発民俗学などを語るようになってから無性に先生にお会いしたくなりましたね。意見を伺うべき、まさに先生としての再会をとても期待していました。

最近ではくだんの大阪外大の恩師の研究会がらみで片倉先生がいらっしゃるところに私も顔をだそうとずっと狙っていたのですが・・・。

たぶんこれが最後の先生との思い出です。

ガザのこどもたち さらーむ 2009年1月16日 (金)

これは確かこの私の決意表明を受けて寄せていただいたメッセージであったと思います。


先生は晩年、アラビア語で言うバイト・ル・ヒクマ(知識の館)とか、いわゆる地中海文明のギリシャやローマのムセイオン、いや古代アレクサンドロス図書館のような知的な文化の交流施設を実現を志していたと聞きます。たぶん、イスラームもキリスト教もない、もっと開かれた人間の智慧のアーカイブと、なによりそのような交流の‘場’を現実のこの世に具現させたかったのでしょう。

私の開発民俗学でキーワードしてよく使う「平の人(by片倉もとこ)」を中心とする考え方というのは、まさに片倉先生の著作や直接伺った話から体得したものでしょう。

今年、たぶん本邦初の開発民俗学の連続講義を4月から行う予定ですが、本格的な研究はこれからで、あと何年かかるのかわからないので、とりあえずこの開講にあわせて今までに書いてきた論考を「開発民俗学研究序説」として、‘素のまま’にまとめる予定です。まずは、この書を片倉もとこ先生に捧げたいと思います。

もっと早くこの取り組みをまとめてきちんと読んでいただき(ご指導)いただきたかった。
でもそれはかなわぬ夢。

こんなことがあった数日後、会社の全体朝礼で大切りと称して、タイトルに書いた、今、はやりの塾講師の言葉「いつやるの! 今でしょに!」にちなんだ話をすることになったとき、真っ先にこの片倉先生のことを思い出しました。

‘今’、私が‘やること’として、非常に意識していることは、人に会うこと。これは2009年6月のマイケル・ジャクソンさんの急死を受けて、昨年末の、すでに‘生きている伝説’となりつつある松田聖子さんのコンサートに駆け参じたときにも考えたことなのですが、とにかく人にあうことだけは、チャンスを逃してしまったら、取り返しがつかないことが多いでしょう。

「逢いたいときに君はいない」とはサザンオールスターズの20年前の曲ですが、‘一期一会’と一言で簡単に言い表せないこのやるせなさ。ともあれ、今できるベストをつくすしかないと、改めて思っているこの3月の夜更けです。

さて、今回のアップデートは主に3つの歩く仲間プロジェクトのご案内です。

その1:開発民俗学連続講義(全10回)を地元、愛知県は岡崎で実施します。

■クロスロード・オブ・ハッピーネス (しあわせの交差点)開発民俗学連続講義 
Aコース: 歩きながら考える‘世界’と‘開発’・・・開発民俗学研究序説

申し込みは、フェイスブックのこちらのページから登録ください。

天下の、もとい世界の風来坊をめざすしばやんこと柴田英知(43才)が提供する、たぶん本邦初の‘開発民俗学’を冠した国際協力と異文化理解を考える連続セミナーのご案内です。

構成は、大きく分けて2部構成(座学と野外研修)、どの回にも自由に参加いただけます。


日時: 4月より毎月第3日曜日 午前10時00分から11時45分まで。有志によるランチ
懇親会も予定しています。詳細は下記を参照ください。

場所:

A)座学: 愛知県岡崎市東部地域交流センター むらさきかん 第5会議室 (8月を除く)

B)現地: ※事情により中止。

※ 後日内容の大幅な変更がありましたので、下記の日程は削除させていただきます 2013年5月19日

講義の概要:

第1回 ※ 講師自己紹介と講義全体のオリエンテーション


第2回 ※ いわゆる開発援助業界について
(開発途上国への援助をめぐる‘外部’のアクターについて学びます。)

第3回 ※地域開発の考え方・・・現場でのアクター分析
(いわゆる開発‘される’側の現地の人たちとは誰なのか?について考えてみます。)

第4回 ※フィールドワークとワークショップ&ファシリテーション 現場の歩き方(座学)
(現場で何を見聞きするのか、そして外部の人と現場の人を結びつなぎ‘協同’するための技法について学びます。)

第5回 ※ 仮 リトルワールドをしばやんと歩いてみよう(実践編)→ 中止
(愛知県犬山市にある人間博物館リトルワールドを一緒に歩いて、現場で見るべきものについて共に現場で考えてみましょう。)

第6回 ※ 振り返り: 参加者によるプレゼンテーション
(講義参加者に学んだこと感じたことを発表していただきます。)

参加費: ひとり1回あたり500円(会場費、資料代を含む)


■クロスローズ・オブ・ハッピネス(しあわせのゆきかうところ)
申し込みは、フェイスブックのこちらのページから登録ください。

構成は全て1回ごとで完結の国際開発コンサルタントのしばやんが歩いてみた世界のまちかどについてのお土産話を多くの写真と音楽などを交えて語るフォトエッセイみたいなものを考えています。どの回にも自由に参加いただけます。

日時: 4月より毎月第4日曜日 午前10時00分から11時45分まで。
セミナー終了後に有志によるランチ懇親会も予定しています。詳細は下記を参照ください。

場所:愛知県岡崎市図書館交流プラザ岡崎市立中央図書館(りぶら) 会議室


セミナーの概要:

※ 後日内容の大幅な変更がありましたので、日程は削除させていただきます 2013年5月19日

参加費: ひとり1回あたり300円(会場費、資料代を含む)


内容:

国際開発コンサルタントとして16年、農業・水資源・地域開発が専門の民間コンサルタント会社で勤務してきたしばやんが歩いてみた世界のまちかどについて、多くの写真とエピソードを交えて面白おかしくご紹介いたします。

どの回に、どの国について紹介するかは、現在調整中ですが、20世紀最後の独立国、アフリカの角のエチオピアの北にあるエリトリアや21世紀最初の独立国(たぶん)東チモールでの足掛け4~5年にわたる復興支援の仕事など、普通では簡単に入国できない国や地域について、なるべく紹介したいと思っています。

たぶん、エリトリア・ブルキナファソなどのアフリカの国々、エジプトやイランなど中近東の歴史ある国々、東ティモール、4年3ヶ月駐在したフィリピンでの話がメインになるのではないかと思います。

その2: 6月8日に宇都宮大学での国際開発学会春季大会に応募します。

その発表予定内容の素案をこちらに紹介します。

ここでキーワードとして取り上げた「第三舞台」とは、1980年代の小劇場ブームの時代に一世を風靡した早稲田大学演劇部出身の鴻上尚史が率いる演劇集団「第三舞台」のことです。
鴻上は劇団立ち上げの際に、いわゆる舞台の上の‘第一’の舞台、観客席のある‘第二’の舞台そして第一と第二の舞台の参加者が共に創造する‘第三’の舞台を作りたいという願いを込めて「第三舞台」を創立しました。

第三舞台とは、舞台の上の役者(=主人公)達がつくる第一舞台とそれをみる観客席の民衆(=お客さん)がいる第二舞台の、いずれでもあって、そのいずれかではない、新たな舞台と、その創造の可能性を劇団名に込めたのです。

そして、この考え方自体は、開発援助の現場のあり方に相似しているのではないかというのが、この論考を始めるきっかけとなりました。

開発援助の現場に話を戻しますと、英国はサセックス大学のロバート・チェンバースは、‘彼’の参加型開発の研究過程で、援助の現場に、外部の専門家が舞台の主人公としてのさぼっていた現状を批判して、外部の専門家の‘第一舞台’と地元民の‘第二舞台’があることを明らかにし、まずは‘第二舞台’の地元民にスポットライトを当てて、外部専門家が居座る‘第一舞台’に、彼ら彼女ら自身を役者(=主人公)として引き出すことを提案し、その20年後には、外部専門家自体が‘第一舞台’から降りることをいわば開発倫理の問題として改めて提起しました。

言い換えると、チェンバースは外部(専門家)からの働きではなく、地元民の内発的な開発をめざすものこそが「参加型開発」であると定義しました。

そして彼の理論は、第一舞台の専門家が描くブループリント的な中央からの開発を否定し、第二舞台の地元民こそが舞台の主人公であるべきだと、それまでの開発援助のパラダイムにおける主客の転換に大きく貢献したといえます。

しかしながらステークホルダーの捕らえ方に根本的な見落としがあるのではないか、つまり、同じ開発援助の‘現場’に共に集い協同する‘仲間’としてのかつての第一舞台の役者(=主人公)とされた外部の専門家と第二舞台の客席の‘お客様’とされてきた地元民の役回りを変えたところで、それだけでは主客が入れ替わっただけはないのか。ただ単に主客が入れ替わることが、‘参加型開発’でよいのかという根本的な問題が現場に残ります。

つまり、第一舞台、第二舞台(どちらが外部者でどちらが地元民でも関係なく)、両者が同じ‘時’と‘空間’=すなわち‘場’を共有することにより、第一舞台でも第二舞台でもない新たな‘第三舞台’を創造するという可能性を忘れてはいないでしょうかというのがこの発表の主旨です。

そして、その第三舞台を創造するための方法(ツール)として、VHHMA(Variety mixture Holistic and Hybrid Multiple Approach)という考え方を提唱いたします。

上記の考えの論拠として、東ティモールの復興支援(2000年~2004年に断続的に3件のJICA、UNDP、日本政府ミッションなどに参加した経験と、フィリピンのミンダナオ島での国際機関の和平支援のさまざまな業務について、国際機関、日本の政府関係機関、国際・現地のNGOsの活動を実際に現地に調査した経験と、フィリピンのビサヤ地方パナイ島での地域開発事業の比較と検証を踏まえて語ります。

(引用終わり)

といった感じで、起業プロジェクトと婚活(←全然、あきらめていない)と大学院入学の準備と、しばやんは今日もいろいろなプロジェクトを同時並行で走らせています。

これが、「いつやるの!今でしょ^^?」に対する私の回答かな^^?

今の主な活動の場は、フェイスブックに移しているのですが、もし気になる方がいらっしゃいましたら、適当に覗いてコメントを残していただけますとさいわいです。

長文にお付き合いいただきありがとうございました。
しばやんはこれからも、ただひたすら歩き続けます。また道が交わるところ(=クロスロード)でお会いしましょう。

みなさまの益々のご健勝とご多幸をお祈りいたします。
すばらしい年になりますように!

ではでは^^?


国際開発コンサルタント/地域活き生きコーディネーター

天下の、もとい世界の風来坊を(ひそかに)もくろむ
しばやん こと 柴田 英知

ではでは^^?

柴田 英知
〒444-0802 愛知県岡崎市美合町三ノ久保33-5
携帯電話: 080-5151-6406
E-mail: bxf00517@nifty.com

2013年3月21日 (木)

開発援助実践の現場で‘第三舞台’の創造は可能か?・・・参加型開発を超えて!

というタイトルで、国際開発学会の春季大会での個人発表を申し込み予定です。一時選考の締め切りは3月27日まで。それほど時間がないので、徐々に内容を詰めていきます。

発表テーマは、VHHMA(Variety mixture Holistic and Hybrid Multiple Approach)という新しい開発援助理論を考えるに至ったその経緯と、その具体的な方法論の紹介です。

この考え方は主に開発援助の立ち上げの部分、プロジェクト・フォーミュレーションやプロジェクト・ファインディング(いずれも略せば、PF)の時点に留意すべきことで、2011年の国際開発学会で発表した「ダブル・エージェント」理論を深めた、いわゆる‘場’を創るための技法です。

なぜそのようなことを思いついたかといいますと、一言でいえば、今までのいわゆる「参加型開発(論)」がその形や精神論ばかり取り上げていることについての不満からです。ある現象や事象を、参加型かそうでないかを解釈することや、精神論や方法論だけで参加型を語り捉えることには実はあまり意味がありません。結局、後付の解釈でしかないからです。では具体的に、参加型を実現させるためにどうしたらようのか、その根本的な戦略が語られてこなかったのではないか、そのようなことを主に緊急復興支援や開発援助の現場を歩くたびに、具体的な戦術をもってこなかったことに対して忸怩たる思いをずっと感じてきました。

ここでキーワードとして取り上げた「第三舞台」とは、1980年代の小劇場ブームの時代に一斉を風靡した大学演劇部出身の鴻上尚史が率いる演劇集団「第三舞台」のことです。

鴻上は劇団立ち上げの際に、舞台の上の‘第一’の舞台、観客席のある‘第二’の舞台そして第一と第二の舞台が共に創造する‘第三’の舞台を作りたいという願いを込めて「第三舞台」を創立しました。

第三舞台とは、舞台の上の役者(=主人公)達がつくる第一舞台とそれをみる観客席の民衆(=お客さん)がいる第二舞台の、いずれでもあって、そのいずれかではない、新たな舞台と、その創造の可能性を劇団名に込めたのです。

鴻上の30年にわたる(うち10年は劇団活動を封印)第三舞台の実践の幕を、2012年に閉めたわけで、果たして彼が第三舞台を現実のものとして実現できたのかについては別の検証が必要でしょうが、この考え方自体は、開発援助の現場のあり方に相似しているのではないかというのが、この論考を始めるきっかけとなりました。

開発援助の現場に話を戻しますと、英国はサセックス大学のロバートチェンバースは、‘彼’の参加型開発の研究過程で、援助の現場に、外部の専門家が舞台の主人公としてのさぼっていた現状を批判して、外部専門家の‘第一舞台’と地元民の‘第二舞台’があることを明らかにし、まずは‘第二舞台’の地元民にスポットを当てて、外部専門家が居座る‘第一舞台’に、彼ら彼女ら自身を役者(=主人公)として引き出すことを提案し、その20年後には、外部専門家自体が‘第一舞台’から降りることをいわば開発倫理の問題として改めて提起しました。

言い換えると、チェンバースは外部(専門家)からの働きではなく、地元民の内発的な開発をめざし志すものこそが「参加型開発」であると定義しました。

そして彼の理論は、第一舞台の専門家が描くブループリント的な中央からの開発を否定し、第二舞台の地元民こそが舞台の主人公であるべきだと、それまでの開発援助のパラダイムにおける主客の転換に大きく貢献したといえます。

しかしながらステークホルダーの捕らえ方に根本的な見落としがあるのではないか、つまり、同じ開発援助の‘現場’に共に集い協同する‘仲間’としてのかつての第一舞台の役者(=主人公)とされた外部の専門家と第二舞台の客席の‘お客様’とされてきた地元民の役回りを変えたところで、それだけでは主客が入れ替わっただけはないのか。ただ単に主客が入れ替わることが、‘参加型開発’でよいのかという根本的な問題が現場に残ります。

つまり、第一舞台、第二舞台(どちらが外部者でどちらが地元民でも関係なく)、両者が同じ‘時’と‘空間’=すなわち‘場’を共有することにより、第一舞台でも第二舞台でもない、新たな‘第三舞台’を作る可能性を忘れてはいないでしょうかというのがこの発表の主旨です。

その第三舞台を創造するための方法(ツール)として、VHHMA(Variety mixture Holistic and Hybrid Multiple Approach)という考え方を提唱いたします。

上記の考えの論拠として、東ティモールの復興支援(2000年~2004年に断続的に3件のJICA、UNDP、日本政府ミッションなどに参加した経験と、フィリピンのミンダナオ島での国際機関の和平支援のさまざまな業務について、国際機関、日本の政府関係機関、国際・現地のNGOsの活動を実際に現地に調査した経験と、フィリピンのビサヤ地方パナイ地方での地域開発事業の比較と検証を踏まえて語ります。

■想定されるキーワード

開発援助、プロジェクト・フォーミュレーションもしくはプロジェクト・ファインディング(PF)、ダブル・チェンジエージェント論(前回の学会発表で提唱)、日常からの積み上げ。人がつながれば情報もモノも流れる。(外部者に)見えないもの。誰がステークホルダーか。選択アプローチの危険性。プロジェクトというフォーマットの有限性。振り返って外部者の役割とは?、風の人と土の人。

■先行発表の参考論文(私が書いたもの)






以上

2013年3月18日 (月)

入院して出所するまで!21年目のリベンジ・・・大学院挑戦記(その1)

もとより平坦な道などそもそもないのであるが^^?

ここでは、しばやんの博士号への道を眺望してみたいと思います。
とりあえずとある大学院の先生に送ったラブレター?です^^? 研究計画(案)と簡単な略歴に触れています。
実は、私が考えていることはかなり危険で既得権とか今までの常識を覆すものになるであろうと思っています。たぶん、いろいろな方面からの風当たりも強くなるだろうなあと思いつつも、俺がやらずに誰がやるということで、私しかできない研究であると思っています。
もう15年も前のことでしょうか。クライアントの先輩(JICA職員)のとある方がいいました。

「(組織が)変わるには20年かかる」と。全くそのとおりだと思います。若手会でそれぞれ組織や立場が違う同年代の仲間と語り合う中で、私は「完璧な組織などないし、どんなところにも問題や不満はある。でも、それぞれの組織の‘中’から自分たちが満足のいくものに変えていこう」というようなことを何度となく熱く語ってきました。

5年前に、開発援助の世界からは脱落?した私が何をいまさら何をいっているかと仲間や先輩からどやされそうですが^^! それぞれの立場でできることをやるということで、この5年間の雌伏は私が次のステップに行くための貴重な経験であったことに間違いがありません。

独立独歩で研究活動を続けることがいかに困難なことか。経済的な独立なしに(社会に対して)自由な研究やコミットメントはできません。

できるところまでやってやろうというのが今の心境です。いいかげん両親や姉弟もあきれているし、やってみたら?とまるで他人事だし。結局、誰の責任でもなく自分の責任でやるしかないなと。
前の会社の上司のひとりが言いました。「勇気」が必要だと。確かにその通りです。一旦、胆をくくったら後は、いかに‘うまくやるか’だけで、やめるとか失敗するとか、そんな余計なことは一切考えないものです。100%、成功することしか考えない。

またまだ何も始まっていません。でも始めようとしている。それがたぶん大事なことだろうと思います。うまくいき‘つつ’あると、進行形で考える。これも誰かの言葉でたぶん本で読んで教わったことです。なになにしつつある。道の半ばと思えば、最後まで歩き続けるしかないでしょう!
みなさまのご指導、ご鞭撻をお願いいたします。
ではでは^^?
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<略歴>
1970年4月1日 愛知県岡崎市に生まれる。
1992年 大阪外国語大学 アラビア語専攻 卒業
1992年~2008年8月 株式会社 三祐コンサルタンツ 海外事業部で政府開発援助の主に社会開発分野のコンサルティング業務に従事。うち、2004年3月~2008年6月までフィリピン共和国マニラ事務所駐在員
2008年9月~現在 株式会社ジェイエスピー 通信販売部門でマリングッズのうちボート用品の営業企画業務に携わる。
<修士論文テーマ>
日本の民俗学者がいかに地域開発というものに対してコミットメントしたのか?
柳田國男ら黎明期の民俗学者から渋沢敬三・宮本常一、そしてその後の民俗学者たちが、日本の国土開発にかかわる行政・地域住民らに如何に対峙してきたのかについてまとめたいと思っています。
<博士論文テーマ>
「フィリピンのミンダナオ島の歴史と開発について」
前職の三祐コンサルタンツは、愛知用水の発起人である篤農家の久野庄太郎さんが、世銀の借款事業のひとつとして行われたこの国家事業の愛知用水をつくるために日本全国から集められた農水省の俊英のエンジニアたちを事業完了後にまとめて引き取って起こした会社です。ちなみにその他の世銀の借款事業とは、黒部第四ダム建設であったり、新幹線であったり名神高速道路であったりします。
つまり民間企業でありながら、いわば農水省のコンサルタントとして、農水省の国内外の農業・水資源・地域開発事業にいわば役所の影の黒子としてかかわり続けているのですが、さすがに創立50周年も経つと農水の影響も薄くなってきますが、フィリピンについては、アジア開発銀行ができた1970年代の初めから継続的に、日本のODAの一部として全土の農業開発計画と事業実施に40年間以上かかわっています。
フィリピンのミンダナオ島についても多くの事業(計画から円借款による事業実施まで)を実施しており、特に、西部のムスリムミンダナオ開発について、円借款事業で行ったマリトゥボク・マリダガオ灌漑事業は、1980年代から2008年まで継続的に事業を実施してきました。私自身も駐在員時代、何度も足を運び、会社の資料、フィリピン政府の関係省庁や現場スタッフとも親交を結んでおり、現在、和平交渉と同時に行われてる世銀やADB,EUやその他の国際機関、日本の政府援助、NGOによる援助など、ほぼ全ての業務を詳細に調査する機会を2007年に持ちました。(この調査結果は当時のJBIC(国際協力銀行)の委託業務として英文の報告書にまとめました。JBICの内部資料のため外部に公表できません。)
それらの調査を通じて感じたことや、さらに深く調べる必要があると思ったことなど、コタバトとその東部のピキットにいたるリグワサンマーシュ(湖)のいわゆる中部ミンダナオ地区について、15世紀以来のイスラーム流入にさかのぼる異民族・多文化の競合の約束の土地・ミンダナオの開発について民族誌的な研究をまとめたいと思っています。
たぶん、一番の専門は大阪市立大学の早瀬晋三先生かと思いますが、私はもっと宗教的なところですとか開発についての考え方、現在との絡みということで、いろいろな先生の謦咳に触れたいと思っています。
ちなみにイスラーム関係では、前嶋信次先生とその弟子の家島彦一先生のダウ船のインド洋世界の研究に深くほれ込んでいます。大阪外国語大学での先生は、古典アラビア語の池田修先生と、アラビア語の地理書が専門の竹田新先生についています。学者ではないかもしれませんが、鶴見良行さんの著作や、ルポライターの鎌田慧さんの思想にも傾倒しています。
民族学では大塚和夫先生や小杉泰先生(政治学)のアプローチよりむしろ片倉もとこ先生や堀内勝先生のアプローチが好きです。日常生活に目を向けるのですが、言葉とか現地の人のコンテクストに、より寄り添っている感じがするので。
ちなみに、博士論文は、今、私は43歳になるのですが、50歳までにまとめようと思っています。つまり、博士課程に進学したのち、1~2年のフィリピンでのフィールドワークが必要だと思っています。フィリピンでの受け入れ先は、アテネオ・デ・マニラの日本文化研究の永井博子先生に、フィリピン駐在中にお世話になっていますので、その縁を大切に研究拠点をフィリピンにも設けたいと思っています。
<生涯のテーマ>
1.開発民俗学の樹立
今まで開発援助の現場からの(日本)民俗学への接近について2000年から2008年まで雑文を書いてきましたが、今後は、逆に、日本の民俗学からみた開発(現象)について研究をまとます。

2.日本の政府開発援助の歴史の取りまとめ
 
そして、日本の途上国の開発援助の実務者たち、特に開発コンサルタントと呼ばれる技術者たちの足跡を正しくアーカイブして日本の開発思想を世界に発信していきたいです。
特に円借款業務については、公的には日本は相手国政府に資金を貸しているだけ?のため、全ての責任は相手国政府にあるというスタンスをとっていますが、実は、日本人のコンサルタントが、必ず相手国政府に雇われてプロジェクトの運営に深くかかわりあっています。設計から施工業者や調達先の選定まで、全て相手国政府の代理人として全て日本人がかかわっています。
今までは、開発コンサルタントの守秘義務と、相手国政府の事業であることから一部NGOなどにより批判的な研究や反対運動はあったものの、それはその円借款事業の全てを把握したものではなく、公表されている資料や統計のホンの一部の調査による、事業の部分的な批判や研究に過ぎません。
日本の政府援助の歴史は、もう55年ほどになりますが、最初期の日本の戦後賠償から始まる政府開発援助の最前線で働いてきた民間の開発コンサルタントたちは、年齢的には80歳、90歳となり、多くの方々はすでに鬼門に入っています。
しかもその当時、一番若かったスタッフでさえも70歳以上となり、多くの民間人開発コンサルタントの先輩方のその知識と経験は、守秘義務の制限のために、記録に残すことができずに、その全てを墓場に持っていかざるを得ない状況になっています。
その秘められた日本人エンジニアたちの開発途上国での苦悩と活躍を正しく継承していくことは、植民地支配から始まった拓殖学としての開発学しか生み出していないイギリス、フランス、遅れてきた宗主国アメリカのいわゆる現在、世界開発銀行や国際連合の‘開発学’とは全く別のものであることの証明と、日本の農村開発の歴史の振り返りになると考えられます。
つまり、柳田國男や渋沢敬三は、欧米の人類学や民族学を学びつつも、その先に、別のものをみていたのではないかというのが、修士論文における私の仮説で、博士論文は、私がアラブ・イスラーム研究に手を染めて感じた地域研究の視点が、いかに現在、世界中で行われている世銀や国連流の‘開発’の問題点をあぶりだすことにつながると確信しています。
ちなみに、テーマ2の日本の開発援助の歴史の取りまとめは、とてもひとりでできることではありません。しかしながら、全ての業務分野での研究が必要です。そのための仕込みとして、私はいろいろなところで問題提起をしてきました。
仮にですが今の方向性として、日本の円借款業務について、産官学による聴き語りの手法によるアーカイブを試みたいと考えております。
この件については、2011年秋の国際開発学会で問題提起をして、会長の佐藤寛氏(日本貿易振興機構、元アジア経済研究所)や加藤理事(JICA総合研修所副所長)他、数名の大学研究者に同意をいただいていることを申し添えます。つまり、この研究については、早速、修士課程在籍中からとりかかる予定です。
ともあれ、21年の社会人経験とお金?を全て後半生の研究者人生につぎ込む所存です。
ちなみに、近日中に起業しますが、それでも学費が生活や家計を圧迫することには変わりません。
それでも博士号取得と教職を目指してやりぬく覚悟です。
よろしくご指導ください。
その後の論考はこちらを参照ください。
以上、よろしくお願いいたします。
柴田 英知
〒444-0802 愛知県岡崎市美合町三ノ久保33-5
携帯電話: 080-5151-6406
E-mail: bxf00517@nifty.com

2013年3月13日 (水)

クロスロード・オブ・ハッピーネス (しあわせの交差点)開発民俗学連続講義 Aコース

天下の、もとい世界の風来坊をめざすしばやんこと柴田英知(43才)が提供する、たぶん本邦初の’開発民俗学’を冠した国際協力と異文化理解を考える連続セミナーのご案内です。


Aコース: 歩きながら考える‘世界’と‘開発’・・・開発民俗学研究序説


構成は、大きく分けて2部構成(座学と野外研修)、どの回にも自由に参加いただけます。

日時: 4月より毎月第3日曜日 午前10時00分から11時45分まで。有志によるランチ懇親会も予定しています。詳細は下記を参照ください。


場所:
 

A) 座学: 愛知県岡崎市東部地域交流センター むらさきかん 第5会議室 (8月を除く)

B) 現地研修: 野外民族博物館リトルワールド(8月のみ)


講義の概要:

第1回 4月21日(日) 講師自己紹介と講義全体のオリエンテーション

第2回 5月19日(日) いわゆる開発援助業界について
※ 開発途上国への援助をめぐる‘外部’のアクターについて学びます。

第3回 6月16日(日)地域開発の考え方・・・現場でのアクター分析
※ いわゆる開発‘される’側の現地の人たちとは誰なのか?について考えてみます。

第4回 7月21日(日)フィールドワークとワークショップ&ファシリテーション 現場の歩き方(座学)
※: 現場で何を見聞きするのか、そして外部の人と現場の人を結びつなぎ‘協同’するための技法について学びます。
第5回 8月18日(日)仮 リトルワールドをしばやんと歩いてみよう(実践編)
※ 愛知県犬山市にある人間博物館リトルワールドを一緒に歩いて、現場で見るべきものについて共に考えてみましょう。

第6回 9月15日(日) 振り返り: 参加者によるプレゼンテーション
※ 講義参加者に学んだこと感じたことを発表していただきます。


参加費: ひとり1回あたり500円(会場費、資料代を含む)


内容:

国際開発コンサルタントとして16年、農業・水資源・地域開発が専門の民間コンサルタント会社で勤務してきたしばやんが日本の政府開発援助の50年の歴史を踏まえて現場で歩きながら考えてきたことを問題提起いたします。

NHKのプロジェクトXでも取り上げれた愛知用水事業を思い立った愛知県は知多の篤農家・久野庄太郎翁と安城農専の浜島辰夫が描いた夢の農業用水計画、その熱意は終戦後の戦後復興期の吉田茂首相への直訴に及び日本政府をして世界開発銀行の融資案件の国家プロジェクトのひとつとなったこのプロジェクトに日本全国から農水省の俊英たちが集められました。

愛知用水プロジェクト終了後に言ってみれば戻る場所をなくした人たちを引き取って作られた三祐コンサルタンツという最強の農業開発部隊。

浜島先生は、入社式の愛知用水ツアーで新入社員たちに、こういいました。

三祐の祐は、助けという意味。3つの助けとは、天の助け、地の助け、人の助け、どのひとつがかけても愛知用水プロジェクトはできなかった。そしてコンサルタンツとは、単数形のコンサルタントではない。コンサルタント(専門家)たちが集まって協力して仕事をおこなうからコンサルタンツなんだと。

非常にわかりやすい会社名だと当時も思いましたし、今でも胸にひびくとてもわかりやすいネーミングだと思っています。

そんな農業や水資源、地域開発の専門家(コンサルタントたち)の日本の開発援助の黎明期からイラン、タイ、エジプト、フィリピン、西アフリカなど、さまざまのプロジェクト実施してきた歴戦練磨のベテランコンサルタントたちの中でもまれたしばやんは、30歳代はあらたなチャレンジとして、「歩く仲間」という個人の名刺を片手に、NGOsや学界(大学関係者)たちのフィールドに武者修行にでました。

いわば押しかけ女房というか道場破りというか、東や西に先生がいればその場に押しかけ謦咳に触れ、時には議論を戦わせ、同期(自分の前後5歳くらい)の開発コンサルタントやクライアント(政府関係者)やNGOsスタッフや大学生・大学院生たちとは「若手会」というインフォーマルな意見交換(たんなる飲み会といううわさもありますが)を幹事のひとりとして年に2回ほどおこなってきました。

まあ、一言でいうと、歌って踊れる(開発)コンサルタントを目指して切磋琢磨してきたわけですが、東京ベースの12年間と引き続きの4年3ヶ月のフィリピンのマニラ事務所駐在員の経験、その後、事業で三祐を辞し、田舎の愛知県の岡崎でのまちづくりにかかわってきたノウハウを惜しげもなく公開いたします。

キャッチーとしては、開発のプロフェッショナルがみてきた世界の国づくり人づくりの現場と、世界の援助機関(世銀や他の国際機関、国際NGOs)が、どこを向いて何をやっているのかを赤裸々に語ってしまおうということで、私が中で考えてきた新しい?方向性について試論(私論)を述べさせていただきます。

対象者: 開発援助や国際協力、海外でのボランティアに関心をもつ高校生、実際に職業として開発のプロを目指している大学生、大学院生、NGOs実務家、地域開発やまちづくりに関心をもつ自治体やNPOsのスタッフなど。

形式: 参加者の数によりますがセミナー形式もしくはワークショップ形式でおこないます。また、ビデオや写真撮影もおこなう予定です。プライバシーに問題がある方は、その場で申し出てください。(オリエンテーションで詳しく説明します。)


関連テキスト:


国際開発コンサルタント(社会開発)/地域活き生きコーディネーター

天下の、もとい世界の風来坊を(ひそかに)もくろむ
しばやん こと 柴田 英知




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ではでは^^?

柴田 英知
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