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2013年3月18日 (月)

入院して出所するまで!21年目のリベンジ・・・大学院挑戦記(その1)

もとより平坦な道などそもそもないのであるが^^?

ここでは、しばやんの博士号への道を眺望してみたいと思います。
とりあえずとある大学院の先生に送ったラブレター?です^^? 研究計画(案)と簡単な略歴に触れています。
実は、私が考えていることはかなり危険で既得権とか今までの常識を覆すものになるであろうと思っています。たぶん、いろいろな方面からの風当たりも強くなるだろうなあと思いつつも、俺がやらずに誰がやるということで、私しかできない研究であると思っています。
もう15年も前のことでしょうか。クライアントの先輩(JICA職員)のとある方がいいました。

「(組織が)変わるには20年かかる」と。全くそのとおりだと思います。若手会でそれぞれ組織や立場が違う同年代の仲間と語り合う中で、私は「完璧な組織などないし、どんなところにも問題や不満はある。でも、それぞれの組織の‘中’から自分たちが満足のいくものに変えていこう」というようなことを何度となく熱く語ってきました。

5年前に、開発援助の世界からは脱落?した私が何をいまさら何をいっているかと仲間や先輩からどやされそうですが^^! それぞれの立場でできることをやるということで、この5年間の雌伏は私が次のステップに行くための貴重な経験であったことに間違いがありません。

独立独歩で研究活動を続けることがいかに困難なことか。経済的な独立なしに(社会に対して)自由な研究やコミットメントはできません。

できるところまでやってやろうというのが今の心境です。いいかげん両親や姉弟もあきれているし、やってみたら?とまるで他人事だし。結局、誰の責任でもなく自分の責任でやるしかないなと。
前の会社の上司のひとりが言いました。「勇気」が必要だと。確かにその通りです。一旦、胆をくくったら後は、いかに‘うまくやるか’だけで、やめるとか失敗するとか、そんな余計なことは一切考えないものです。100%、成功することしか考えない。

またまだ何も始まっていません。でも始めようとしている。それがたぶん大事なことだろうと思います。うまくいき‘つつ’あると、進行形で考える。これも誰かの言葉でたぶん本で読んで教わったことです。なになにしつつある。道の半ばと思えば、最後まで歩き続けるしかないでしょう!
みなさまのご指導、ご鞭撻をお願いいたします。
ではでは^^?
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<略歴>
1970年4月1日 愛知県岡崎市に生まれる。
1992年 大阪外国語大学 アラビア語専攻 卒業
1992年~2008年8月 株式会社 三祐コンサルタンツ 海外事業部で政府開発援助の主に社会開発分野のコンサルティング業務に従事。うち、2004年3月~2008年6月までフィリピン共和国マニラ事務所駐在員
2008年9月~現在 株式会社ジェイエスピー 通信販売部門でマリングッズのうちボート用品の営業企画業務に携わる。
<修士論文テーマ>
日本の民俗学者がいかに地域開発というものに対してコミットメントしたのか?
柳田國男ら黎明期の民俗学者から渋沢敬三・宮本常一、そしてその後の民俗学者たちが、日本の国土開発にかかわる行政・地域住民らに如何に対峙してきたのかについてまとめたいと思っています。
<博士論文テーマ>
「フィリピンのミンダナオ島の歴史と開発について」
前職の三祐コンサルタンツは、愛知用水の発起人である篤農家の久野庄太郎さんが、世銀の借款事業のひとつとして行われたこの国家事業の愛知用水をつくるために日本全国から集められた農水省の俊英のエンジニアたちを事業完了後にまとめて引き取って起こした会社です。ちなみにその他の世銀の借款事業とは、黒部第四ダム建設であったり、新幹線であったり名神高速道路であったりします。
つまり民間企業でありながら、いわば農水省のコンサルタントとして、農水省の国内外の農業・水資源・地域開発事業にいわば役所の影の黒子としてかかわり続けているのですが、さすがに創立50周年も経つと農水の影響も薄くなってきますが、フィリピンについては、アジア開発銀行ができた1970年代の初めから継続的に、日本のODAの一部として全土の農業開発計画と事業実施に40年間以上かかわっています。
フィリピンのミンダナオ島についても多くの事業(計画から円借款による事業実施まで)を実施しており、特に、西部のムスリムミンダナオ開発について、円借款事業で行ったマリトゥボク・マリダガオ灌漑事業は、1980年代から2008年まで継続的に事業を実施してきました。私自身も駐在員時代、何度も足を運び、会社の資料、フィリピン政府の関係省庁や現場スタッフとも親交を結んでおり、現在、和平交渉と同時に行われてる世銀やADB,EUやその他の国際機関、日本の政府援助、NGOによる援助など、ほぼ全ての業務を詳細に調査する機会を2007年に持ちました。(この調査結果は当時のJBIC(国際協力銀行)の委託業務として英文の報告書にまとめました。JBICの内部資料のため外部に公表できません。)
それらの調査を通じて感じたことや、さらに深く調べる必要があると思ったことなど、コタバトとその東部のピキットにいたるリグワサンマーシュ(湖)のいわゆる中部ミンダナオ地区について、15世紀以来のイスラーム流入にさかのぼる異民族・多文化の競合の約束の土地・ミンダナオの開発について民族誌的な研究をまとめたいと思っています。
たぶん、一番の専門は大阪市立大学の早瀬晋三先生かと思いますが、私はもっと宗教的なところですとか開発についての考え方、現在との絡みということで、いろいろな先生の謦咳に触れたいと思っています。
ちなみにイスラーム関係では、前嶋信次先生とその弟子の家島彦一先生のダウ船のインド洋世界の研究に深くほれ込んでいます。大阪外国語大学での先生は、古典アラビア語の池田修先生と、アラビア語の地理書が専門の竹田新先生についています。学者ではないかもしれませんが、鶴見良行さんの著作や、ルポライターの鎌田慧さんの思想にも傾倒しています。
民族学では大塚和夫先生や小杉泰先生(政治学)のアプローチよりむしろ片倉もとこ先生や堀内勝先生のアプローチが好きです。日常生活に目を向けるのですが、言葉とか現地の人のコンテクストに、より寄り添っている感じがするので。
ちなみに、博士論文は、今、私は43歳になるのですが、50歳までにまとめようと思っています。つまり、博士課程に進学したのち、1~2年のフィリピンでのフィールドワークが必要だと思っています。フィリピンでの受け入れ先は、アテネオ・デ・マニラの日本文化研究の永井博子先生に、フィリピン駐在中にお世話になっていますので、その縁を大切に研究拠点をフィリピンにも設けたいと思っています。
<生涯のテーマ>
1.開発民俗学の樹立
今まで開発援助の現場からの(日本)民俗学への接近について2000年から2008年まで雑文を書いてきましたが、今後は、逆に、日本の民俗学からみた開発(現象)について研究をまとます。

2.日本の政府開発援助の歴史の取りまとめ
 
そして、日本の途上国の開発援助の実務者たち、特に開発コンサルタントと呼ばれる技術者たちの足跡を正しくアーカイブして日本の開発思想を世界に発信していきたいです。
特に円借款業務については、公的には日本は相手国政府に資金を貸しているだけ?のため、全ての責任は相手国政府にあるというスタンスをとっていますが、実は、日本人のコンサルタントが、必ず相手国政府に雇われてプロジェクトの運営に深くかかわりあっています。設計から施工業者や調達先の選定まで、全て相手国政府の代理人として全て日本人がかかわっています。
今までは、開発コンサルタントの守秘義務と、相手国政府の事業であることから一部NGOなどにより批判的な研究や反対運動はあったものの、それはその円借款事業の全てを把握したものではなく、公表されている資料や統計のホンの一部の調査による、事業の部分的な批判や研究に過ぎません。
日本の政府援助の歴史は、もう55年ほどになりますが、最初期の日本の戦後賠償から始まる政府開発援助の最前線で働いてきた民間の開発コンサルタントたちは、年齢的には80歳、90歳となり、多くの方々はすでに鬼門に入っています。
しかもその当時、一番若かったスタッフでさえも70歳以上となり、多くの民間人開発コンサルタントの先輩方のその知識と経験は、守秘義務の制限のために、記録に残すことができずに、その全てを墓場に持っていかざるを得ない状況になっています。
その秘められた日本人エンジニアたちの開発途上国での苦悩と活躍を正しく継承していくことは、植民地支配から始まった拓殖学としての開発学しか生み出していないイギリス、フランス、遅れてきた宗主国アメリカのいわゆる現在、世界開発銀行や国際連合の‘開発学’とは全く別のものであることの証明と、日本の農村開発の歴史の振り返りになると考えられます。
つまり、柳田國男や渋沢敬三は、欧米の人類学や民族学を学びつつも、その先に、別のものをみていたのではないかというのが、修士論文における私の仮説で、博士論文は、私がアラブ・イスラーム研究に手を染めて感じた地域研究の視点が、いかに現在、世界中で行われている世銀や国連流の‘開発’の問題点をあぶりだすことにつながると確信しています。
ちなみに、テーマ2の日本の開発援助の歴史の取りまとめは、とてもひとりでできることではありません。しかしながら、全ての業務分野での研究が必要です。そのための仕込みとして、私はいろいろなところで問題提起をしてきました。
仮にですが今の方向性として、日本の円借款業務について、産官学による聴き語りの手法によるアーカイブを試みたいと考えております。
この件については、2011年秋の国際開発学会で問題提起をして、会長の佐藤寛氏(日本貿易振興機構、元アジア経済研究所)や加藤理事(JICA総合研修所副所長)他、数名の大学研究者に同意をいただいていることを申し添えます。つまり、この研究については、早速、修士課程在籍中からとりかかる予定です。
ともあれ、21年の社会人経験とお金?を全て後半生の研究者人生につぎ込む所存です。
ちなみに、近日中に起業しますが、それでも学費が生活や家計を圧迫することには変わりません。
それでも博士号取得と教職を目指してやりぬく覚悟です。
よろしくご指導ください。
その後の論考はこちらを参照ください。
以上、よろしくお願いいたします。
柴田 英知
〒444-0802 愛知県岡崎市美合町三ノ久保33-5
携帯電話: 080-5151-6406
E-mail: bxf00517@nifty.com

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