開発援助実践の現場で‘第三舞台’の創造は可能か? -参加型開発を超えて!-
しばやん@ホームです。先日、5月7日の期限ぎりぎりで、下記の原稿を、国際開発学会第14回 春季大会の口頭発表用に事務局に提出しました。
とりあえず、こちらにアップしておきます。
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開発援助実践の現場で‘第三舞台’の創造は可能か?
-参加型開発を超えて!-
歩く仲間主任研究員/地域活き生きアドバイザー
柴田英知
キーワード: 開発援助、参加型開発、プロジェクト・フォーミュレーション、フィールドワーク、チェンジエージェント
1. はじめに
論者は1992年より16年間、農業・水資源と地域開発を専門とする開発コンサルタント会社に勤め、その後も地元の‘まちづくり’の中で常に誰の何のための活動(開発)なのかを模索し続けている。今回の発表では劇作家の鴻上尚史の「第三舞台」を参考に、開発援助の現場における‘関係性’に焦点を当てて非日常(ハレ)である開発援助プロジェクトと平の人(by 片倉もとこ)の日常(ケ)との相克、特に現状把握の難しさ、そしてVHHMA(Variety mixture Holistic and Hybrid Multiple Approach) という考え方ならびに‘われわれの物語’を創るということについて報告したい。
2. 時間と空間を共有するということ-‘舞台=現場’と‘関係性’について
1980年代の小劇場ブームの立役者のひとり劇作家の鴻上尚史はスタッフとキャストがつくる「第一舞台」、観客席のある「第二舞台」そして両者が「共有する幻の舞台。すなわち客と劇団が最上の形で共有する」舞台の創造の可能性を「第三舞台」という劇団名に託した。
例えば「天使は瞳を閉じて」(1988)という舞台にこのようなやり取りがある。収容所と思しきところから逃げ出そうとする登場人物たちは監視者から銃撃を受けて壁までたどり着くことができない。そこで『東京タワー作戦』なる作戦を試みる。「私達は、「オトリ」と「本隊」というふうに分類しているからだめなんだ。」「全員がオトリになりながら、全員が本隊になるんだ。」「東京タワーは、街から見られる存在でありながら、東京タワーに上れば、街を見る存在に変わる。つまり東京タワーは、見られる存在でありながら。」「見る存在なんだ!」
これはほんの一例であるが鴻上尚史はその他の戯曲においても徹底的に‘関係性’にこだわっているようにみられる。この「見る存在でありながら見る存在」であるという視点は、すなわち~ 年代にかけて人文科学系の研究者、特に文化人類学徒の盲を解放した考え方に他ならない。つまり完全なる客観性は確保しえないということと、関係性という相互作用により変化する現状を把握することの難しさを改めて考えさせられたのである。課題はここにおいて、現場でいかに関わりあうかという問題に置き換えられる。
3. ロバート・チェンバースの参加型開発の視点について
さて前述の演劇の世界の言葉を流用すれば、参加型開発を提唱するR・チェンバースは、開発援助の現場で外部専門家が「第一舞台」の主人公であった状況を批判して、「第二舞台」のお客様とされてきた住民を「第一舞台」の主人公として引き出すことを提案した。つまり彼の理論は、「第一舞台」の専門家が描くブループリント的な中央からの開発を否定し「第二舞台」の住民こそが主人公であるべきだと、それまでの開発援助のパラダイムにおける主客の転換に大きく貢献したといえよう。そしてその20 年後には、外部専門家自体が「第一舞台」から降りることをいわば‘開発倫理’の問題として改めて提起している。外部(専門家)からの働きかけではなく、住民自体が内発的な開発をめざし志すことが「参加型開発」であると定義しなおしたといえよう。
しかしながらステークホルダーの捕らえ方に根本的な見落としがあるのではないか。つまり「第一舞台」と「第二舞台」(どちらが外部者でどちらが地元民でも関係なく)の両者が同じ‘時間’と‘空間’=すなわち‘場’を共有することにより、「第一舞台」でも「第二舞台」でもない、新たな「第三舞台」を創る可能性を忘れてはいないだろうか。
4. 開発援助の現場における現状認識の実情(緊急援助と開発援助)
国際協力を論ずる場合、実施機関による分類とは別に緊急援助と開発援助という区分で分けられる場合がある。その違いと何が難しいのかについて掘り下げてみたい。
(1) 東ティモールとフィリピンのミンダナオ島の緊急援助の現場から
まず論者が2001 年から2004 年まで複数の国際機関、日本政府の業務でかかわった東ティモールの復興支援業務と、2004 年から2008 年にかけてマニラ駐在員としてかかわったフィリピンのミンダナオ島の平和構築支援の業務での経験を紹介したい。
① ステークホルダーのあいまいさ
緊急援助の場合、まず誰をカウンターパートとするかということ以外にもプロジェクトにかかわる‘ステークホルダーのあいまいさ’が大きな問題である。政府開発援助の場合、カウンターパートが政府関係者であるのは間違いないにせよ受益者であるべき開発対象地域の‘住民’の実態が非常にわかりにくい。
東ティモールの場合、国家と地方行政を担っていたテクノクラートでもあるインドネシア人の行政官が全て帰国してしまい、また騒乱の中で多くの既存の資料や政府関連施設が焼き払われてしまったために、人的資源というソフトだけではなく、ハードとしての役所としての資料や情報が、いきなり断ち切られた状態になってしまった。
またフィリピンのミンダナオ島においても戦闘行為で紛争地帯に入ることができないため国家の末端行政機関が十分に機能しておらず、加えて政治的理由により、フィリピン政府、ARMM 政府とバンサモロ開発庁という複数の行政機関が連立することとなった。
さらに平和時における開発援助の場合であっても、中央官庁の政策レベルで計画されていることと、地方出先機関の実情と現状把握のレベルの違いがあまりに大きいことがある。
特に国際機関や二国間援助のいわゆる政府開発援助においては、事業規模が大きい場合が多いので、どの段階から地域行政機関そして実際の受益者である住民を巻き込むのについては、非常にセンシティブにならざるを得ない。
特に国際機関や二国間援助のいわゆる政府開発援助においては、事業規模が大きい場合が多いので、どの段階から地域行政機関そして実際の受益者である住民を巻き込むのについては、非常にセンシティブにならざるを得ない。
このように実際の開発現場の現状がわからない場合でも、目的となる住民がどのような人たちなのか、例えばどのような生業で生計を立てているのかがよくわからないままに中央レベル(援助機関、カウンターパート機関の中央部、開発コンサルタントなど)で開発計画を立案してしまう場合が非常に多い。
また現地で既に多くの事業が実施されており機能している有効なネットワーク(人脈、ファシリティーなど)が存在していたとしても、中央レベルではそれを知らない、もしくはその重要性が十分認識されにくいことを指摘したい。つまり既存のネットワークが持つ成功と失敗の経験が、新しいプロジェクトの立案に十分に反映されないためが故の失敗例を東ティモールでもミンダナオでも見聞きした。
② プロジェクト設計時における選別の是非について
例えばミンダナオのケースであるが、事業開始時点でプロジェクトの対象者を社会的弱者、例えば‘先住民・マイノリティ’‘女性・子供’などの一定の枠組みに絞り、本部で対象地域を選別して、当事者の知らないところでその‘枠’に入らない周辺の集落や住民がプロジェクト対象から落とされているケースが複数のプロジェクトで見受けられた。特に地理的な要因に配慮が足りない場合に、同じ地域でありながらプロジェクトの恩恵を受けるものと受けないものができると同時に、プロジェクトを実施する援助団体の違いにより近接している集落の間で同じような事業内容、例えば給水施設の建設の住民負担率などにバラつきが生じて不平等が生まれているケースがあった。
③ 見えるものと見えないもの
また、プロジェクト側で排斥された住民とは別に、集落の中で主要で多数派を占める‘メジャー’な住民から排除されているマイナーな住民についてのアプローチが不十分になりがちである。マイナーである理由として民族的な問題と地理的な問題があり、同じ集落と外部からは思われているにもかかわらずメジャーの住民から周縁だと思われている住民がいた。つまりメジャーである住民にとっては、彼らが‘見ようとしていないマイナーな住民’も同じプロジェクトの受益者であるという意識がないために問題として顕在化しにくい。そのためドナーがマイナーな住民の存在自体に全く気がつかないケースがあり、結局プロジェクトの実施が現地の差別を固定して住民間の格差をさらに広げてしまうという問題が生じている。そのような既存の不平等や差別に対してプロジェクトはどのようにアドレスできるのか、またアドレスすべきなのかという問題が残る。
これらの例のように、現場の実態把握の重要性がこれほど指摘されているのにもかかわらず、緊急支援の場合は特にプロジェクト形成時には現地の状況が十分わかっていないことが非常に多いといえよう。
(2) 開発援助の現場からフィリピンのパナイ島の地元民による地域開発(事業)
開発援助の例として地域住民が主体的に推進する地域開発について前回の学会発表で紹介したフィリピンのパナイ島での事例をとりあげる。その中で論者は他者性をもった現地のチェンジエージェントが、外部のチェンジエージェントと緩やかなネットワークにより外部者とプロジェクト対象地域の住民を新たな‘プラットホーム’に乗せることにより地域開発を推進していることを報告した。そして日常(性)に対比して非日常かつ一過性であるプロジェクト(事業)をいかに地域に取り込もうとしているのかについて、ダブル・チェンジエージェントという概念モデルを使って説明を行なった。つまり結果として、プロジェクトという「第一舞台」、それに参加させられた受益者の「第二舞台」が協働で作り出した「第三舞台」というプラットホームが、この現場では既に創りだされていたことになる。
5. 結びに代えて…VHHMA(Variety-mixture Holistic and Hybrid Multiple Approach)と‘われわれの物語’を創るということ
VHHMA とは論者の造語であるが、あえて日本語にすると「複雑でまぜこぜのまま全体的によいとこどりであらゆる側面からアプローチ」するという意味である。そもそも世界そのものが多様性(variety)をもって互いに混ざり合っているもの(mixture)であり、全体をありのまま(holistic)に、そしてよいところを掛け合わせて(Hybrid)、多面的に(Multiple)に接近(approach)すること、これは近代科学が進めてきた世界を単純に(Simplify) 切り離して(separate)分析して(analyze) 単純化する(unify)アプローチ、SSAUA (Simplify,separate, analyze and unify approach) に対立するものともとれるが、逆にそのようなアプローチを補完するものであるともいえる。
果たしてプロジェクトという時間と予算の限られた枠組みの中で、VHHMA を実現できるのか?VHHMA は分析や単純化そしてフレームワークを拒むものであり、早速の解決を目指さない。つまりプロジェクトでそれを行なうことは現実には非常に難しいものといえる。
だからこそ、非日常(ハレ)である開発プロジェクトという「第一舞台」に、日常(ケ)を生きる「第二舞台」の現地民が邂逅することによって、すなわち‘時間’と‘空間’を共有する全ての当事者が「第三舞台」を創ることによって「第一舞台」の予算と時間の枠を取り外し「第一舞台」が去ったあとも「第二舞台」の住民は、新たな「第三舞台」の物語を続けていくことを可能とさせる。これが‘われわれの物語’を創るということである。
また、この一度「第三舞台」を創ったという経験こそが、現地の日常に色を添え、また次なるプロジェクト「第一舞台」を呼び込む受け皿(プラットホーム)になるといえよう。
その「第一舞台」と「第二舞台」の間に立って、異なる文化を仲介し翻訳しさらには調整して、それぞれの住民にとって居心地のよい「第三舞台」を創りだすチェンジエージェントたちのことを論者は「ダブル・チェンジエージェント」と改めて命名したい。
今後の課題として、1.VHHMA とは具体的に何であるのか、そして、2.いかに‘われわれの物語’を創るのかが挙げられるが、それを説明し、かつ実現化する有効な手段の一つとして、フィールドワークとファシリテーションおよびワークショップがあげられることを指摘して今回の報告を終えたい。
2013年5月6日 提出 最終稿
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