今、考えるべきこと - 参議院選を自民党の圧勝で終えて!
初出: facebook グループ クロス・ロード・オブ・ハッピネス 投稿 2013年7月30日
しばやん@ホームです。ここのところ他人の記事のシェアが多かったですが、久しぶりに文章を書きます。先ほど、麻生さんの記事をシェアさせていただきましたが(渡辺さんありがとう)どうも政治家‘大’先生のおごりとしか思えません。
■ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演 2013年7月30日07時32分 読売新聞
一体、政治家って何様!という気がしてなりません。特に2世3世(それ以上もいるはず)議員は、本当に始末に終えないという気がします。
ただ、この場では悪口をいうところではないので、個人名を挙げることはしませんが、このような‘大’先生たちのバカなというか人をなめくさった言動を見聞きするたびにこんなことを考えています。
いや、思い出すといったほうがいいでしょう。
まずは、こちらをご覧ください。
■世間師」、「裸足の研究者」そして「絶望」を超えて その1 2000年2月5日
■「世間師」、「裸足の研究者」そして「絶望」を超えて(その2) 2000年2月5日
その2で、鶴見良行さんの『東南アジアを知る-私の方法ー』岩波新書 1995年11月20日 について、今、読んでいると書いていますが、その本の中にこのような一節があります。
<II マラッカ海峡にて (p53~80)
ここで、「マレー半島のクラ地峡(南部タイ)に原子力を利用して運河を掘るという計画があって」1973年に東京で最初の国際会議を開くという7月の日本経済新聞の小さな記事に鶴見さんは、敏感に反応します。つまり「原子力で土木工事をするということは、水爆の地下実験の延長、はっきり言えば水爆を使って運河を掘るということです。」それで、その年の秋に、彼は当時の勤め先の国際文化会館の「東南アジアの文化交流の催しがたまたまマレーシアであったから」それに便乗して?クラというところに行き、会議のあと、そこをずっと歩きます。結局、その計画は、一旦は棚上げされますが、彼はそこでこう考えます。
「運河計画から気づいたこと」 (p70)
(前略)
(1)クラ地域の住民は、水爆についても、運河についても、知識が皆無でした。計画は、住民の知らないうちに始まり、知らないうちの消えたのです。
(2) (略)
(3) (前略)クラ運河計画に参加した日本人学者は多い。だが、大学は、知的批判者を生産するシステムになっていない。(後略)
(4) それではどうするか。三つの”場”を有機的に結びつける発想が必要だと思います。三つの“場”とは、(a)知識の場、(b)運動の場、(c)第三世界の場。
(中略)
しかし、知は知だけでは力になることはありません。知は運動と結びついて初めて力となります。日本の今日の運動の多くは、議会制民主主義やイデオロギー運動を別にすると-それを別にするのは、そこから新しい第三世界についての認識が生まれてきそうにないからですー被害者の運動です。市民運動は、こうした性格を持っています。痛みがあるから運動には馬力があるが、力だけでは暴力になりかねない。無知は恐ろしいのです。
(後略)
V 海の側からみる (p144~164)
2 猟師とタモと落ちた魚
『ナマコの眼(まなこ)』という著書に関連して、「知と力」について触れています。
『現実の問題を解決するために、学問があらかじめ蓄えておいた知識を力(政治・運動)に提供するといった恵まれたケースよりも、」「公害反対運動と公害学のように」「すでに起こってしまっている困難や矛盾を解決するために、学問が現実の後追いをする場合のほうが多いような気が」すると述べ、引き続き、ODAについても言及しています。
「たとえば、今日、日本政府のODAについて第三世界からの批判があり、」それについての研究として、「ODA政策改善のためには、環境アセスメントが必要だと指摘しています。その環境とは、自然環境だけではなく、社会的・文化的環境をもふくみ、たぶん後者のほうがより重要で」あることを指摘しています。
例えば、「インド」などでダムを建設するプロジェクトがあるとすれば、「事前に環境アセスメントをおこなうには、自然科学・社会科学でしっかりした訓練を受け、しかも現地語をマスターした五、六人のチームによる一年間の調査が必要」であると説きます。このくだりは開発援助業界にいたものとして、かなり耳が痛いところではありますが!
「知無き力は暴走になりますし、力と連動しない地籍生産は象牙の塔にこもります。
(中略)
しかし、ナマコについて本を書いてみようと考え出した七〇年代末ごろから、つぎのようなことをおぼろげながら考えていました。
工業団地開発や水爆利用をする工業先進国の力は、いずれはナマコ文化圏にも押し寄せてくるにちがいない。私の知の力は、九牛の一毛、それを押しとどめるにはいたらないだろうけれど、先をこしてそこで待ちかまえてやろう。そんなことを漠然と考え、海辺を歩いていたのです。」(p160~161)
ながながと引用してしまいましたが、この本を最初に読んだときからずっとこの言葉が頭の片隅にありました。
私が大学生のときに、湾岸戦争が起こり、トマホークが落とる爆弾のその下で何人もが死んでいく中で(それをテレビで見ている)、イスラーム研究者(学界)は、人が目の前の死んでいくことに対して、なにを悠長に歴史や文化などを‘研究’しているのだと憤ったこともありました。
■地球環境論のこの1年を振り返ってみて (1991年2月)
「(前略)この地球環境論が始まった当時、やはりどうしても、現代の問題にばかり眼がいって仕方がなかった。なぜなら、いまの中東地域は現代的な問題の巣窟みたいなところであったからである。戦争もあれば、都市問題、民族問題、宗教の問題、環境問題、出稼ぎの問題難民の問題。まさになんでもありだ。
そんなとき、夏休みに東京で「イスラ-ムの都市性」についてのサマースクールが開かれた。5日にわたった大がかりもので、朝から晩まで90分の講義が15本も続いた。一日おきの懇親会という名のコンパに付き合って、いろいろな先生方や若い学生達と個人的に話し合う機会を持ったことは大きな収穫であったと思う。しかし、わたしは、その時、この文部省の特別研究費によるこの学際的な大プロジェクトの真意(かならずしも、1つとは限らないと思うが)が、全然わからなかった。自分自身の問題として捉えられなかったのである。現代のことしか見ていなかったわたしは、なにを悠長に、都市のプランとか、伝統にこだわっているのかと思った。その伝統こそが1つの鍵であったのだが、そのときは知る由もない。
そんなわけで、夏休みが終わってからも悶々としていたのだが、10月頃、今度は大阪で、このプロジェクトに関する講演会があった。ここで、クウェート問題を、イスラームの都市性に絡めて東大の板垣雄三先生が説明された。そこで、わたしは、自分なりにではあるが、イスラームの都市性研究の意味がやっと解ったのである。(後略)」
まあ、22年も昔の若かりしときの言葉なので、ご笑覧いただければいいのだが、今、現代をみて思うことは、今、騒ぐことも大切であるが、もっと肝心なのは5年後、10年後の日本を救えるか?というと大げさだが、5年後、10年後に、はっきりと今の政治家に対してノーといえ、かつ別の道を示すために、「先をこしてそこで待ちかまえてやろう」という静かな?闘志がふつふつと沸いてくるのを感ぜざるを得ないのである。
たぶん、2000年から始めた「歩く仲間」プロジェクトも、そのための布石というかそのための下準備であったと、たぶん振り返ると思えるときがくるのではないかと13年間、やってきてそう思う。
まだまだ、逆風は強いと思いますが、倦まず弛まず(by地球物理学者 竹内均先生)やっていくしかないなあと思う今日この頃である。
※「倦まず弛まず」は、竹内均先生が、確か中学校のときに文化講演会で語った言葉で、このフレーズだけおぼろげに覚えています。
(この項 了)