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2013年8月11日 (日)

68年目の長崎の日に思うこと

初出:フェイスブック クロスロード・オブ・ハッピネス(しあわせがゆきかうところ)書き込み 2013年8月9日


<長崎の日に思うこと>

今日は、長崎に原爆が投下されて68年目となる。廣島は、高校を卒業した3月に(1988年)に大阪外国語大学を受験してからそのまま中国地方の一人旅で寄って、長崎は、大学3年生の夏休みに九州は福岡の同級生(同じ学生寮(下宿)の隣室の友仲間、彼はロシア語)が里帰りするのに便乗して九州一周の旅に出た際に立ち寄った。

もう22年も昔のこととなる。

その記憶が新しいときに書いた「大阪便り 1991年8月29日」の記事の一つがこちら!

「(前略)


    長崎でのすれ違い・・・学友の死

 のっけから、センセーショナルな話題となって申し訳ないのだが、8月23日(金)早朝に、長崎の病院でガンで亡くなられた、アラビア語科4年の歳田直美さんに謹んで冥福の辞を述べる。タイトルに対して若干の説明を加えなければならないが、つまり、こういうことである。8月9日から親友の久富君と九州へと旅立った小生は、実は13日と14日に長崎を訪れていたのだが、この8月にチュニジア留学への出発が決まっていた彼女が、8月の初めから長崎の病院に入院していたとはつゆ知らず、もう出発したか、または準備が忙しかろうと全然声をかけずに素通りしてしまったという訳なのである。

 大阪と長崎のどちらにいるのか知らなかったなどと、幾ら言い訳を考えてみても仕方がなく、7月12日の夏休み前の最後のゼミでみんなと一緒にチュニジア料理を食べ(チュニジア留学から帰国したての先輩がいたため)、別れ際に「これでもう会えないね」(当然!留学のため)などと言葉を交わして別れた矢先の事であった。
  合掌   

(後略)」

長崎は出島、浦上天主堂原爆の像など、ひととおり?は被災地を歩いたつもりだが、今日、ふと思い出したのはわずか21歳で亡くなった友達のこと。彼女が、生まれてから召されるまでの年月がすでに経ってしまったこと。この私のその後の22年間は、なんであったのだろうか。それほど近しい友達でもなかったけど、卒業式の懇親会のときに彼女がいなかったことを口々に語った彼女の女友達のことをも想い出す。

以前にも「屍を乗り越えて」というテーマの文章を書いた覚えがあるが、やっぱり夢や希望をたくさん抱えた何の罪も無い、たまたまそこに居合わせただけの普通の人を無差別に殺戮するのはダメでしょう。

ただですら、人はそれぞれの一生を全うするに必死になっているのに、何の権利があって人のしあわせに(国家が)干渉して介入してくるのか。

本当に、安倍首相とひざを突き合わせて話がしてみたい。(←妄想DJやっぱり松田聖子のめがねオヤジさんのキメ?言葉。相手は聖子ちゃんだけど)

道は(まだまだ遥かに)遠くて日が暮れて、ということにならないように、一歩ずつ歩いて行くしかないのかなあ!

そういえば、以前紹介したユニカセの中村八千代さんが、お話で、「三歩進んで2.9歩下がって」とか話していたことを思い出しました。いわく「一歩でも進めれればいいじゃん(0.1歩という現実に較べて)」って、う~ん、言葉に重みがあるなあ!

21歳で逝った彼女にも、なんらかの天命があった。残された人たち(わたしたち)にとっての天命はなんなのでしょうかねえ。

行くも地獄残るも地獄、生きるも地獄死ぬのも地獄、よく言われますが、やはり死ぬことを考えてもいいけど、生きているうちに(自分に)できることをやって、心軽やかに逝きたいものです。

改めて合掌。

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