【歩く仲間通信 20190928】修論概要と国際共創塾
今まで名刺交換をさせていただいた方々にBCCで送付させていただいております。配信不要の方は、お手数ですが折り返しご連絡いただけましたらさいわいです。(空メールで結構です)
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みなさん、こんにちは。
お久しぶりのしばやんこと柴田英知です。不定期発行の「歩く仲間通信」をお送りします。初めて、ご覧になる方もいらっしゃるかと思いますが、わたくしの近況報告と、みなさんの研究や実践活動などに、ほんの少しでもお役にたてたらと考えて発信をしております。
今回のお題は、二つです。
■研究の入り口に立って思うこと(修論の概要)
前号でもふれましたが、無事に口頭試問も合格して、2019年9月25日に、名古屋市立大学大学院人間文化研究科の博士前期課程人間文化専攻を修了することができました。
同じ人間文化研究科の修士は中国の留学生の方との二人でしたが、学部と研究科で20名ほどが秋季の卒業者として、大学本部で学長をはじめ理事の先生方に卒業式をあげていただきました。
大学院で直接ご指導いただいた先生方はむろんのこと、修士論文の作成には、国内外の歩く仲間のみなさまの応援とご支援があってのことだと深く感謝しております。
ところで、わたしの修士論文のタイトルは、
一人雑誌『躬行者』と「愛知用水の久野庄太郎」
―忘れられたままの愛知海道(第二東海道)-
です。
修士論文では、愛知用水の生みの親といわれている愛知県の知多半島の篤農家久野庄太郎(1900-1997)の『躬行者』という一人雑誌の全100号の分析により、この雑誌が生まれた期限と、約300の記事として書かれた内容の目次とコラム構成を分析しました。
1.『躬行者』という久野の自伝そのものが「愛知用水の久野庄太郎」言説の根拠となったこと、しかし、約300の記事のうち、三分の一しか外部に引用されておらず、さらにその中の「篤農家」と「愛知用水」に関する記述のみが後世に伝えられることになった。
2.しかし『躬行者』に書かれたメインテーマは、以前より知られていた「篤農家」あるいは「愛知用水」の久野庄太郎ではなくて、「愛知海道」という愛知県の東西をまっすぐに横切る幅50メートルの自動車専用道路の建設による内陸部の工業開発でした。
つまり、愛知用水と名古屋南部臨海工業地帯を誘致した地元の農民グループは、愛知用水の水と工業地帯でつくられるエネルギーを幅50メートルの片側2車線の間の共同溝で運び、道路建設の計画策定と同時に地権者から二割減歩で道路の両側2キロメートルの区画整理をおこなうという地域開発計画を地元の地方自治体と住民に働きかけると同時に国にも陳情していたのです。
今では「愛知用水の久野庄太郎」としてのみ顕彰されていますが、実は、その先に尽きせぬ郷土開発の情熱があったことが『躬行者』からは読み取れました。
愛知用水自体は、大正期から昭和初期にかけて、「日本のデンマーク」といわれた愛知県の中央部の碧海郡の明治用水かかりの農業先進地域の農村振興の実績と、戦後に本格的に導入されたテネシー川流域公社(TVA)の水資源の多目的利用による地域総合開発思想のふたつ、つまり、「日本デンマーク」と「TVA]を目標に、「水と共に文化を流さん」というスローガンのもと官民一体となって建設された世界開発銀行の借款による戦後を代表する地域総合開発事業であることは、確かにこれまでも言及されていました。
しかし、『躬行者』は、その背景、実際に裏で動いた久野を中心をする「渦中の人」たちが、何を考えどう動いたのかがわかる一次資料であるだけではなく、愛知用水の建設推進の経験を踏まえ、あくまで地元中心に、その「開発思想」をさらに深めて実践を続けていたことが、今ではほとんど忘れ去られたままなのです。つまり、「愛知海道」構想自体が、まったく埋もれてしまっていたのです。その裏で愛知用水関係者が動いていたことも。
この修士論文の中では、愛知海道の内容について、ほとんど分析できませんでしたが、実は、この路線は、今日の国道23号線のバイパスの路線と重なります。つまり、約50年前、久野が『躬行者』の中で、その建設推進過程を報告し、この雑誌を通じて、住民啓もうを続けていたときには、ほとんど目に見える進捗がなかった愛知海道は、ようやく60年の時間をかけて、細かい路線の変更はあるものの、現実のものとなったのです。
詳しい検証が必要ですが、久野らが50年前に住民合意を取り付けた地域に、今の23号線のバイパスが通ったという箇所が、かなりの割合になると思われます。
修士論文では、『躬行者』そのものの紹介(資料編として、全100号の各号の目次とコラムごとの目次、二次資料への外部引用個所の対応表をつけました)と、「愛知海道」の記事が、メインテーマであったのにもかかわらず、いままで、まったく研究の対象とされていなかったことを明らかにしました。
ちなみに、『躬行者』は最後期には、日本全国、宮家、政治家、国家公務員、地方の百姓連中にまで、16,500部も第三種郵便で発送されていたのにもかかわらず、公立図書館には、わずか2冊しか、しかも両方とも愛知県の知多市立中央図書館に、久野本人が納めたものしかありません。
結局、本当の研究はこれから始まるのですが、初めの一歩としては非常に意義のあるスタート地点に立てたと思います。
何より先達の地域開発にかける熱い想いをたどるのは、とても楽しい作業でもありました。
すぐに博士課程に進学できませんが、研究は少しずつでもつづけていこうと考えています。
なお、論文そのものを読んでみたい方は、ご遠慮なく、直接ご連絡ください。個別に対応させていただきます。
■国際共創コンサルタント養成塾をはじめました。
前号では、2003年から提唱している「開発民俗学」を眼にみえる形にしたいという話をしたのですが、最近、自分の生業そのもの、つまり「仕事」そのものにはならないだろうことを感じています。
また、果たしてこのネーミングが適切なのかについても疑いがでてきました。
そもそも「民俗学」そのものが地味ですし、学問とされた時点で、柳田国男ら初期創始者たちの思いとは違ったものとなってしまいました。この20年くらい、新しい民俗学を模索する動きがあることも承知していますが、やはり学問という枠がはめられたことで、本来、在野の人たちが始めたダイナミズムが失われてしまったといわざるを得ません。
現実から問題を立てるのか、学問というフレームワークを通じて、現実の問題をみるのか、で当然、見えるものが違うことは、わざわざわたしがいうまでもありません。
また、わたしの敬愛する宮本常一や、鶴見良行や鎌田慧らがやったことや、やろうとしたことは、そもそも「学」なのかという疑問があります。
■巨人たちの足跡
http://arukunakama.life.coocan.jp/gsteps.htm
また、「開発」という言葉そのものに反感を感じている人たちが非常に多いのも事実です。また自分で研究しておきながら疑問符付きで「開発」を語っている研究者の仲間がいることも承知しています。
実は、かなり以前から、何名かの大学の研究者から、「『開発民俗学』だろうが何学でもいいが(君がやろうとしていることはなんとなくわかる?が)難しいだろう」という反応をいただいておりました。とある研究者の方は、わたしが大学院に進学するにあたって相談にうかがったときに、わたしの研究関心をきいて、「あなたのやりたいことをすべてやろうとすると、わたしだったら、三つの人生があっても足りない」とあきれられました。さすがに、修士課程を経験すると、いかに無謀な野望を語っていたのか、なんとなくわたしもわかる感じがします。
自分が研究をする原点は、「日本発の開発学を世界に問いたい」それを自分が発信するんだということで、それを野望として胸に秘めていました。公言しているので全然秘めていないのですが。
ただ、今になって思うと、日本発の開発学というのは、さすがにいいすぎなので、日本という環境で育まれた開発実践と、その思想のいくつかを、ちゃんと欧米中心の開発学界のメインストリームに還元することが必要であると訂正させていただきたいと思います。
確かに、学問を背負う立場にないわたしが「学」にこだわることもないので、「開発民俗学」というものが仮にあるとしたら、その中身で何がしたいのか、何を言うべきなのかを、もう少し考えることにしました。
そして、そのひとつの答えとして、「国際共創」というキーワードと概念をあげたいと思います。
実は、昨年の12月から名古屋の事務所で、国際協力や開発援助に関心を持つ人たちのキャリア支援のセミナーを、なんどか開くと同時に、若者中心の国際協力や国際貢献についてのイベントにいくつか、参加してきました。
その結果、今の大学生や30歳代を中心とする若い世代の方々が思ったり、やろうとしている国際支援や国際貢献は、どうも今までの政府開発援助や国際協力NGOなどがやってきたものとは微妙に違っているらしいと感じました。
何がどう違うのか、まだ言語化できていません。でも違和感を感じるというか、何か自分が今まで接してきた開発援助の世界の常識とは何かが違うことを感じるのです。
このたび大学院を修了して、仕事としてやるべきは、これらの新しい世代を支援することなのではなかろうか。
国際共創というコンセプトのもと、わたしが体得してきた既存の国際協力や開発援助の世界でひろく共有されてきた知識や経験を、彼らの役に立つようにかみ砕いて伝えていくこと。
おこがましい言い方ですが、わたしは今後、仕事として新しい国際共創のできる人材を育てる事業に取り組むこととしました。
こだわりは「国際」。いまやグローカルという言葉もありますが、日本人としてはしっかりと先進国や開発途上国すべてを含んだ日本以外の
価値観に向き合わないといけない。日本も含んだ国際あるいはグローバルを知れば、おのずとローカルをみる眼も変わってくる。
そして「共創」とは、これまでの第二次世界大戦後の開発の歴史を振り返っても、「開発援助」、「国際協力」、「国際支援」、「国際貢献」などの既存の言葉や概念では、今の各国の間での人々の動きをつかみきれない。
本来は、世界中のあらゆる地域の「人びとから人びと」の間では共創があってしかるべきでしょうが、今の近代資本主義国民国家体制が、厳然としてある以上、一歩譲って、「国際共創」くらいにしておく必要がある。しかし、人としての関係性を、どのようにとらえ、ともに何を創っていけるのかが重要なことはいうまでもありません。
また、わたしが「コンサルタント」という言葉にこだわるのは、自分自身が「開発コンサルタント」として、そのプロフェッション(専門家としてのあり方)を楽しんでいるからです。
所属組織に関係なく、国際協力のプロは、基本的に「コンサルタント」としての立ち回りができないと生きていけないと思うので、やはり海外で働きたい人はコンサルタントという生き方を目指していただきたい。
そんなことを思いつつ、10月からの新規の事業展開を準備しています。
https://www.facebook.com/groups/ArukuNakamaNet/
当面、こちらに塾に関する情報をアップしていきます。
この節をまとめると、「開発民俗学」の提唱を少し引っ込めて具体的に、その担い手としての「国際共創コンサルタント」というもののあり方を探ることにより、その理念を見える化してみたい。
そんなことを考えています。
みなさま方のご指導とご鞭撻を、引き続き、よろしくお願いいたします。
2019年9月28日
国際共創塾 塾長 柴田英知
P.S.
歩く仲間では、2020年1月より、歩く仲間通信をはじめとする情報発信について見直しをすることになりました。
あらたにメルマガを発行することも考えていますが、その配信方法について、みなさまのご意見や意向を確認させていただきたいと思います。簡単なアンケートにご協力をお願いいたします。
■歩く仲間メーリングリストアンケート
https://forms.gle/Ec4ZvnQBKsqHLzBK6
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歩く仲間 代表 柴田 英知
E-mail: bxf00517@nifty.com
名古屋・栄サテライトオフィス
〒450-0002 愛知県名古屋市中区丸の内3-17-24
NAYUTA BLD 6F
https://nayuta-bld.com/
修士(人間文化)
専門:中間支援、イノベーション普及論、開発民俗学
■歩く仲間…歩きながら考える世界と開発 (ブログ版)
http://www.arukunakama.net/blog/
■開発民俗学への途…共有編
http://arukunakama.cocolog-nifty.com/kaihatsu_study/
■名古屋市立大学大学院人間文化研究科
地域文化と共生のHP
http://www.region-ncuhum.com/
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