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カテゴリー「楽しく生きるために」の2件の記事

2018年5月 6日 (日)

【今日の世界をより楽しく生きるために(その2)】


みなさん、こんにちは。

今年のゴールデンウィークも、いよいよ最終日ですね。いかがお過ごしですか。

第二回目のお題目は、こちらです。

(第2回)「(人の話は)半分に聞こう」

これは、別にわたしのオリジナルではなく、開発コンサルタントの先輩に教えていただいた(いわれた)言葉ですが、たぶん25歳くらいでしょうか。とある方から、飲み会か何かのインフォーマルな席でいわれました。

まあ、なんということもない言葉ですが、わたしは結構、気になっていて、自分でもいつしか、たぶん、30歳くらいから特に若い人と話すときにつかうようになりました。

さて、その心はなにか。わたしがこの言葉を使うときは、ちょっと説教が入るときとか自分の経験を語ろうとするときには、必ず前置きとしていうように意識しています。

わたしが、この言葉でいわんとすることは、過度の経験至上主義みたいなものを自分にも相手にも戒める意味があります。われわれ開発コンサルタントは、特に開発途上国でかなり特殊な個人的な経験をもっています。それは一般的なものもありますが、かなり特殊な経験ももちろんあります。

ただ、それはあくまで個人的な経験であり、それが全てではないし、その特殊をもって一般論を語ることはできないし、その経験そのものに価値を与えることは危険ですし、鼻持ちならない自慢に聞こえるのかもしれません。

また、語る人にとっての意味と聞く人にとっての意味は、当然違うこともあるでしょう。ただ、経験なり考えを語るということは、語る人にとっての意味を聞く人にもわかってもらいたい。同意してもらいたいという気持ちはあると思います。

ただ、そのような場合でも、あくまで語られた人、聞く人が考える余地、判断する余地を大切にしたいとわたしは思います。

経験が全てではない、でもせっかく経験なり情報や考えをわざわざシェアしてくれる人がいるのなら、その語りを100パーセントでもなく0パーセントでもなく、せめて半分くらいはまじめに聞こうよというのが、わたしの本位です。

確かにすごい先輩や上司の言葉は、かなり迫力があって、人によっては、100パーセント自分が正しいんだとか、100パーセントこうせよと強いる人がいないわけでもありません。しかし、逆にあきらかに間違っているとか矛盾しているよということもあるとは思います。

これは、権威や力に対して、盲目的に従うなという意味でもあるし、どんなくだらないことや間違いからも学ぶべきことがあるということでもあります。

そして、その判断は、聞く人にゆだねたい。過度に委縮することなく、一つの「話」として聞けることは聞いたうえで、自分のものにできるのであれば、その価値や自分が判断する。そのようなことを促すために、この言葉をつかってきたような気がします。

これは、相手にいうのと同時に自分が人の話をきくときにも、常に意識していることです。

この連載も、この言葉を頭において聞いていただけますとさいわいです。

ではでは^^?

2018年4月30日 (月)

【今日の世界をより楽しく生きるために(その1)】


みなさん、こんにちは。

なんとなくこのグループの投稿がただ仲間(これは事実ですが)のイベントを紹介するだけのシェアオンリーみたいになってしまって、単なる情報グループになってしまっているのではないかという自己反省から、もう少し「闘う知識人」のグループとしてのアイデンティティを前面に出すことにしました。

テーマと構成は、このグループの主宰者のしばやんが、不定期に、ワンテーマで読切の記事を書きます。それを基にみなさんで議論を深めようという企画です。

まず、第一回目のお題目は、こちらです。

(第1回)「知は力なり、ただしそれは開かれたものでなければならない。 by 柴田英知 1991」

実は、この言葉は、もう大学生の頃からですから、もう20年近く唱え続けていることなので、人によってはもう聞き飽きたという方もいるかもしれません。
ですが、そもそも私が外部に向けて文章を書くのは、この言葉にこだわり、かつ、ここにしか自己の存在理由を見出すことができないからでもあります。

すでにお察しのとおり、「知」とは、単なる「情報」以上の、かなり広いものを指しています。例えば科学技術なども含まれるでしょうし、もっと身近には自分や知人の醜聞みたいな極めて個人的な「恥ずかしい」ことも含まれましょう。

わたしが思うのは、その「知」そのものが力であり、例えば、特定の権力者が他の誰もが持てない権利や力を持つ、卑俗的には、人の弱みを握ることにより、その知を(暴)力に変えてしまう、いわゆるハラスメントというのも個人や団体間での「知」と「力」をめぐるせめぎあいです。

ここでいきなり「正義」論に話を飛躍させることはしませんが、上の言葉には、「力である知」は、そもそも誰のものであり何のために存在するのかという問いが隠されています。

わたしは「知」や「力」に、そもそも正義や倫理を求めていません。なぜならそれらは、それが置かれた状況によって正義にも悪にもどちらにもなりうるからです。

せめての願いは、だれもがその「知」や「力」にアクセス可能なものであってほしい。

わたしは、ヒエラルキーの存在を否定はしませんが、いわゆるサミット主義には反対です。世界賢人会議とか特定のエリートや賢いとされる人々にわれわれの生をゆだねることに断固反対します。ギリシアの賢人は、衆愚政治を呪ったそうですが、わたしは「衆愚」の知恵の方が、一部の「賢者」の知恵にまさると信じています。

前書きで、「闘う知識人」と書きながら、自分の中でも失笑していました*。なんらかの力を持つものは、それに応じた社会的な責任を果たすことが求められています。

それは、その「知」や「力」を、「自分の考え」で使うのではなく、それをかみ砕いて自分以外の人びとや社会に開いたものにしていく、その中で、みなが考えるための材料として提供することにより、みずからの「自分の考え」をより世の中にとって意味のあるものにしていく、それが、「知識人」が「闘う」ということの意味だと思います。

ものの原義は知りませんが、私の立場からすれば「知識人」が時の権力なりと「闘う」という意味ではなく、「知識人」が自分のエゴやプライドと「闘う」ことにより、「知」や「力」をもった一部のエリートの中での主導権争いをするのではなく、独占されていた(いる)知を開いたものにすることにより、本当の意味における「人びとの闘い」につなげていく。

これは「知」や「力」を、だれの側にもっていくのか、いや、そもそも「知」や「力」は、だれのものかという命題につながっています。

そんな青臭いことをひたすらに考えて実践していく。そんなことを常に考えながら生きています。

ではでは^^?
*しばやんは、こんな偉そうなことをいいつつ、自分を「知識人」の側におくことに何のてらいもないのかといわれたら、身も蓋もありませんが、客観的にみれば、どうみたって私は「知識人」の側にいる、比較的自由に「知」にアクセスできる立場にいることは間違いがありません。このアクセス可能であるということは、いろいろな含意があります。言葉の問題やアクセスすること自体に何の制限も今のところは課せられていないことなど、今の時点に限っていえば、世の「知識人」といわれる人たちと何の遜色もない「めぐまれた立場」であることは事実であり、それを隠したり偽る意味はないと考えています。

柴田 英知

フィリピン・ファン