下記に、まえがきを転記します。ご高覧ください。
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ひととひとをつなぐことによりモノと情報が流れる
-まえがきにかえて-
知は力なり。そしてそれは開かれたものでなくてはならない。(柴田英知 1991)
ただし、その裏書として、
「「他人の気持ちがよくわかる人」は誉め言葉だが、わかった気持ちを弄ぶことができるのもそういう人。」(現代会社の基礎知識 中川いさみ『大人袋③』小学館 1998 159頁)
本著は、わたくし柴田英知の『アラブ・イスラーム学習ガイド 資料検索の初歩の初歩』 シーシャの会(1991)に続く2冊目の著作となる。1970年生まれ、新人類といわれた団塊ジュニアの世代である私が1992年3月に大阪外国語大学(現大阪大学)外国語学部アラビア・アフリカ語学科アラビア語専攻を卒業し、株式会社三祐コンサルタンツという農業・水資源・地域開発の専門民間開発コンサルタント会社で、東京をベースに12年間、2004年3月より2008年6月までフィリピンのマニラ駐在員として政府開発援助(ODA)の現場で、歩きながら考えた‘世界’と‘開発’についてのささやかな論考である。
ようやく仕事に慣れ始めた30歳前後から自分(達)のやっていることについての疑問や迷いが生じるなか、ひょんなきっかけからホームページを開設し(2000年3月18日)、「歩きながら考える」というエッセイと並行して「開発学への途(のちに開発民俗学に変更)」という連載をホームページ上で展開することとした。
また同時に、会社の名刺とは別に、「歩く仲間」の名刺をもって、武者修行のためNGOや学会のセミナーや勉強会に他流試合にのぞみ、若手会という同世代の開発援助関係者(開発コンサルタント、政府関係者、NGOスタッフ、大学(院)生)などのインフォーマルなネットワークの世話人などをさせていただいた。
この東京での経験は、マニラに駐在した際に、邦人駐在員のODA関係者とNGO関係者、留学生や在フィリピン研究者による「フィリピンで開発を考える勉強会」の発足にも活かすことができたと思う。
私は、学問的には、アラビア史の前嶋信次先生、民俗学者の宮本常一先生、イスラーム史、インド洋交易史の家島彦一先生の研究スタイルと、その合わせ鏡として、裸足の研究者鶴見良行氏とルポライターの鎌田慧氏の現代を見る眼から多くを学んできた。(注1)
今回は、なぜ私が、「開発民俗学」というものを考えざるを得なかったのかについて、いささか個人の内面の吐露的な‘主観的’な論考を中心に取り上げた。しかしながらこの主観的なるものも、世界中の多くの先達や仲間との対話の中から生まれたもので、「歩く仲間」と一緒に議論するなかで、みなで創ってきたものであるともいえる。
さて、ここで簡単に「開発民俗学」の志を述べたい。もとよりこのような学問分野は、寡聞のかぎりでは、現在、日本には存在しないと思われる。(石川鉄也氏が、『山を忘れた日本人 山から始まる文化の衰退 彩流社 2010 にて「開発の民俗学」を提唱されているが異なるものと考える。)
本文にも収録されているが、私の文章を引用したい。
「ところで、学問として開発人類学というものがある。この人類学にはいろいろな分類があるのだが、その別称として‘民族’学という言い方がある。この民族学とは、外部世界の見聞を自分の世界にもってかえって、同国人の気づきを促すという効用をもっている。今までの歴史上では、これは先進国の研究者が、未開な地域を訪れて、そこで収集した経験(事物も含む)を自分および自国民のために役立てるというケースが多かったのだが、私は、逆に、外部者として私たちが介入することにより、現地に住んでいる人たちの気づきをうながし自分たち自身のことを自分で研究してよりよい世界を自分たちで創造していける、そんな、開発‘民俗’学というものがあってもよいのではないかと考えるようになった。
この日本語に特有の「民族学」と「民俗学」という2つのミンゾク学は、実に示唆に富むと思う。この日本語にいう「民俗学」は、柳田国男にいう、いわば日本文化の元の形(基層文化)を探るという側面があるのだが、それだけではなく、宮本氏のいう、実際に生きている人たちの生きる糧となるような学問のあり方、自分の足元を知ることにより、日々の生活をよりよいものにつくり変えていくという‘実践の民俗学’という側面もあると思う。
つまり外部者として、(途上)国に入ることにより、現地の人たち自身の郷土への関心を呼び覚まし、彼らが‘民俗学’を自分の地で実践することにより、内部から社会を変えていくきっかけをつくる。この民俗学の主体は、当然、彼ら自身である。そんな開発‘民俗’学を創っていきたい。かってな造語だが、そのようなものがあってもよいのではと、最近考えるようになった。」 柴田英知 「開発‘民俗’学の構想」(2003年11月3日)
「「つまり、書くとは「過去の事件や現代の人間を描いたりしながらも、けっしてそれで完結するものでなく、現代をテコにしながら、未来をこじあけるものでなければならない」し、そこには「批判と変革の志」がなければならない、ということ。」(鎌田慧の取材姿勢について、吉岡忍が要約したもの。吉岡忍「解説」 鎌田慧『ルポルタージュを書く』 岩波同時代ライブラリー 1992 221頁
これを私なりにもじると「開発民俗学とは、現代の問題から出発するにせよ、過去の歴史に謙虚に学び、そこに住む人たちと未来を創造していくものである。」って言えたらかっこいいなあ^^!」 柴田英知 「封建領主は、単なる‘悪の親玉’なのか!」(2006年12月1日)
「ひるがえって、‘開発民俗学’が求めるものは何か。それぞれが生きる場としての地域に戻って(立って)、それぞれが最もふさわしいものを自らが選び取っていく、そのためには自分の足場を考える地場の‘民俗(学)者’が育たなければならないし、彼らが地域のリーダーとしてそれぞれの地域を変えていく。またそれらの‘民俗(学)者’をつなぐべき異人としてのカタリストも必要であろう。これらの人々をNGOのシャプラニールでは、前者を「土の人」、後者を「風の人」と読んでいる。見事なネーミングだと思う。
昨今、社会開発や人間開発が叫ばれているが、その足元にあること、そもそも何のための‘開発’なのかを、常に振り返ることが必要であることを改めてここで強調させていただく。また同時に、‘開発’を考えることは、‘途上国’のことを考えるのではなく、‘先進国’のありかた自体、もっといえば、われわれ自身の生き方で問うものであることを繰り返したい。」 柴田英知 「開発の究極目標?制度設計」 (2007年7月22日)
今、私は、2008年にフィリピン駐在から帰国したのを機に、家庭の事情で開発コンサルタントの職を辞し、親元である愛知県に戻ってきた。転職してマリングッズの専門商社で5年間、通信販売の企画営業としてウェブショップの運営というマーケティングの現場体験を積むと同時に、地元の岡崎市のまちづくりや市民活動に関わって、あらためて‘開発民俗学’の裾野を広げることができたと思う。
この1992年~2008年の政府開発援助の中での開発コンサルタント経験と、2008年~2013年の民間営利企業でのマーケティング経験は、政策レベルから小売まで、風上から風下までの一貫した開発戦略の実践を図らずも現場で学ばせていただいたともいえよう。
そうした国内外の地域のためにがんばる多くの人たちとの交流は、改めて、「人と人をつなぐことにより、モノと情報が流れる」ということの重要性を裏付けてくれた。
今、21年間の社会人経験を経て、開発民俗学を創るために、あらためて大学院進学のチャンスを与えてくれた三つの祐について感謝したい。三つの祐(たすけ)とは、天の助け、地の助け、人の助けをいう。海外業務には危険な地域での仕事もあったが、幸い事故や事件に巻き込まれずに仕事を全うできたこと。私を影に日向に助け支えてくれた人々への感謝は言葉に表しきれないが、それでも機をみるには、天の配慮ともいうべき導きがあった。
ちなみに三祐とは、戦後復興の大きな礎となった愛知県の知多半島部とその先の篠島へと水を運ぶ愛知用水を創った男たちが興した農業土木の専門コンサルタンツである三祐コンサルタンツの社名そのものである。篤農家、久野庄太郎翁を技術面で支えた農業土木技師浜島辰雄先生は、新入社員研修で愛知用水をバスで回りながら、続けてこういう「なぜコンサルタンツか、それは、専門家であるコンサルタントが助け合って協働するから複数形なのだ」と。このとおり、本書には「戦後日本を代表する初の大規模総合開発プロジェクト“愛知用水事業”」に携わったエンジニアたちの熱き心の一端が垣間見られるかもしれない。この素晴らしい先輩、上司、同僚の仲間の全てには感謝しきれないほどの恩恵をいただいていたことに関して、なんらかの恩返しができればと常に考えている。(注2)
なお、本書は、2013年2月23日に最後のフィールドワークに旅立たれた片倉もとこ先生にささげたい。1990年5月の関西大学で開かれた日本中東学会 第6会 年次大会で初めてお会いしたのをきっかけに、研究会や講演セミナーなどいろいろなところで先生の謦咳にふれさせていただき著書やお話から多くのヒントをいただいた。特に「平の人」と「ホーリスティック」アプローチに関して多大な影響を受けている。この開発民俗学の構想に関して一番、最初に相談いたしたく、また指導をいただけたらとずっと考えていたのだが、それもかなわぬ夢となってしまった。
まだまだ開発民俗学への途は緒についたばかりである。今まで私を助け叱咤激励そして鞭撻していただいた世界中の多くの仲間に感謝すると共に、何らかの体をなしたときに改めて喜びを分かちあえる日が遠くない将来にくることを願ってやまない。
2013年11月30日
柴田 英知
注1 Giant Steps!(巨人たちの足跡) 2001年2月25日現在
しばやんが敬愛する『歩く』仲間の大先輩方のコーナーをここに設けました。
しばやんが、今まで生きてきて本物だと思える仕事をされてきた大先輩に、宮本常一先生、前嶋信次先生そして家島彦一先生がまず挙げられます。
彼らの代表的な著作や翻訳書を通じて彼らの思索の足跡をたどりつつ、そして、その合わせ鏡として現在の社会を見る眼ということで鶴見良行先生と鎌田慧先生の著作やその仕事を、「歩く仲間」に広く紹介させていただきたいと思います。
宮本 常一(民俗学者) 1907年~1981年
主な業績;
常民の発見、及び民俗学の基本的な課題の探求
『忘れられた日本人』
『宮本常一著作集』
前嶋 信次(アラビア史)1903年~1983年
主な業績;
イスラーム・アラビア史の啓蒙、及び『アラビアンナイト』の日本語初の原典訳
家島 彦一(イスラム史・東西交渉史)1939年~
主な業績;
インド洋交易史の解明、及びイブンバトゥータ『大旅行記』の原典全訳
鶴見 良行(裸足の研究者)1926年~1994年
主な業績;
辺境から中央を見ることによる東南アジア史の解明と海の民の再発見。
『バナナと日本人』、
『ナマコの眼』
鎌田 慧(ルポライター)1938年~
主な業績;
日本の高度成長の裏側を労働者や社会的弱者の立場で告発。
『自動車絶望工場』、
『ぼくが世の中に学んだこと』
当然、これらの先達にめぐり合うまで多くの先生や、諸先輩、仲間の導きがありました。全ての、『歩く仲間』に深く感謝しております。
Thanks a lot for your suggestions !
注2:括弧の部分は、高崎哲郎 『水の思想土の思想 世紀の大事業 愛知用水』 鹿島出版会 2010 の帯の言葉を引用した。愛知用水事業については、同著を参照されたい。