20110612 ビジネス講座 「グローバルコミュニケーションと日本人~英語を母語とする人・しない人」
ということで、今日は、隣町の幸田町図書館に行ってきました。
◆ ビジネス講座 「グローバルコミュニケーションと日本人~英語を母語とする人・しない人」
「日本の常識は世界のヒジョーシキ?」
外国人と交流したり、海外に行くと、日本との違いに驚いたことはありませんか?英語圏の国々を中心に、講師の豊富な体験談を交え、日本と諸外国の文化を比較しながら、国際理解や異文化交流を学びます。
日時: 2011年6月12日(日) 午前10時~正午
場所: 幸田町立図書館 2階学習閲覧室
講師: 諏訪 純代氏 (岡崎女子短期大学経営実務家専任講師)
名古屋大学大学院国際開発研究課博士後期課程修了。ルフトハンザ航空(ドイツ)、エミレーツ航空(ドバイ)にて国際線客室乗務員として勤務後、現在にいたる。
対象: 一般、 定員 30名 → 出席 25名。 参加費 無料
こういう市町村の行事とかイベントでうれしいのは参加費が無料なこと。最近、特に地元のイベントに積極的に参加しようとしているのは、自分の関心のある演題の講師の方との交流とは別に参加者でいい人がいないかという婚活活動の一環として。 そもそも地元の枠内に治まらない生き方をしてきたので、少しでも海外に目の向いた人のほうが話が合いそうなので、とにかく類友の法則?を信じて、いろいろなイベントに参加したいと思います。
なんか、学生時代や、東京での駆け出しのコンサルタント時代を思い出しました。
他流試合の記録として、参加記録が残っていますが、よくもまあ、いろいろなところに顔をだしたものです。
◆他流試合の記録 セミナー・勉強会など @HP 歩く仲間
http://homepage1.nifty.com/arukunakama/b002.htm
まあ、物怖じせずに誰とでも話せるというのは私の強みです。(今のところは負の影響はほとんどないです。)
さて、今回の講座ですが、英語を客観的に見直すのに、とてもためになりました。先生は、ぎりぎり国際語として使えるジャパニーズイングリッシュのボーダーを探ろうとする言語学者で、客席乗務員すなわちスチュワーデスの仕事も博士論文のための実務経験で休学して働いたという恐るべき経歴の人。大学をでてアメリカでデザインを学んでデザインを教えていた人が名古屋大学の院に入って‘コミュニケーションツール’としての英語に取り組もうというのだから、純税培養の言語学の学徒とは、まったく違った実践的なアプローチの仕方の片鱗を、今回の講義でもみせてくれました。
いかにもアメリカ的だなと思ったのは、2時間の講義の前半が、座学で1時間、残りの1時間をアクティビティにあてて、25名の参加者を5つにわけてのワークショップをおこなったこと。
自分自身、ワークショップは好きでフィールドワークでは必ず現地住民とのワークショップの機会を設けるのですが、確かにグループワークやワークショップは、理念や言葉ではわからない、さまざまな‘きづき’を与えてくれます。
アクティビティの内容は、5人一組で、架空の国をつくり、他の4つの国と交流を行おうというもの。国の名前から挨拶の仕方、言葉の特徴、気質、タブーなどを参加者で話し合って決めて、他のグループと挨拶をして、そのそれぞれの感じたことを発表する ~挨拶編~と、自国をPRするとうので、情熱的にとか、理性的に、協調的に、自由に、と、その気質になりきって国内で議論し、その国のPR案をまとめるというもの。~ 自国PR編~ 。その中で、果たして自分はどの気質があっているのかを考えると共に、他者の言動からある程度のその人のパターンというか気質を見抜くという訓練。
国のイメージと、その見られている印象の中での立ち居振る舞いを意識的に考えること。異文化の中での日本人の立ち位置を考えるという内容の講義でした。
先生のまとめは、以下のとおり。
グローバル・コミュニケーションツールとしての英語に関して:
「グローバルコミュニケーションとは、世界が舞台であること、共通のコミュニケーションツールを持つこと、それは異文化交流でもあるということ。 → 常に日本代表であるということを意識すること。」
アクティビティの最後のラップアップで示された:
「何が常識で何が非常識になるのか考える。
頭を柔らかくする! = 異文化理解に繋がる!
日本人であることに誇りを持つ
→ 場数を踏む」
という2つのポイントに集約されると思うのですが、実際に、海外で‘英語’を使って仕事をしてきた自分にとっても、120%合意できる内容でした。
また、先生の質問で、「ジャパニーズ英語は世界で通用するか?」という問いかけについて、私も参加者として答えたのですが、「実はジャパニーズイングリッシュは、文法もしっかりしているし、へんな訛りもないし、少なくともアメリカ人やイギリス人、インド人の英語より、はるかに(相手に)わかりやすいし、十分世界で通用している」と発表したところ、先生が、「そうです。YESです。実体験からくる言葉ですね。」といわれたので、別に自分の経歴を話したわけではないのですが、わかってくれてありがとうといったところでちょっと感動しました。
実際に、東ティモールで多くの国際機関の専門家(オフィサーやコンサルタント)とも会話をしましたが、オージー(オーストラリア人)の英語なんて、訳がわからないし、アメリカやイギリス英語を話す人が、その他大勢の英語を母国語としない参加者の中で評価されていたとは思えない。まあ、国際会議では話す内容が問題ではあるのですが、わかりやすいのは、非英語圏のアジアン英語(ジャパニーズ英語であったりフィリピン英語など)のほうが、はるかにコミュニケーションのツールとしては‘使え’ます。間違いなく。
ちょっと誤解をあたえそうなので慎重に聞いていただきたいのですが、ある程度、コミュニケーションが成立するとその後にくるのは‘人として’共感できるかという普通の日本人同士の付き合いと全く変わらないどろどろした部分が見えてきます。結局、バカはバカというか肩書きやタイトルに関係なく尊敬できる人は尊敬できるし、どうかなという人は現実にいます。だからいろいろな国やいろいろな肩書きの人と接するうちに、なんかわかってしまったというか、当たり前のことなのですが「人として」どうなのかが問題であり、見かけや肩書き、貧富の差なんてなんなのさという気になってきます。言い方によっては非常に難しいのですが、本当に、世界中探しても、普通の「平の人」しかいません。
そういう意味で、別にアメリカのオバマ大統領だって普通に‘人’として話せるんじゃないかなあと思います。私にとっては誰でも同じことで、所詮‘人間じゃん’ということなんですわ。まあ、フィリピンのアロヨ大統領と握手しているし、東ティモールのサナナ・グスマン大統領にもあっているし、日本の開発コンサルタントってなんだろうなって思いますね。今、思うと。
あと、先生と後で雑談したのですが、「今の時代は、アメリカ英語とかイギリス英語などと言っている場合ではない、そんな考え方はもう古い」というところで、アメリカやイギリス留学組になんとなくコンプレックスをもっている私も、大いに納得。そうだ、そうだ、もっともっとジャパニーズ英語で「‘中身’を発信すべき」というところで講師の先生と大いに共感したところでした。
でも、まあ今の大学のスタイルも大きく変わりつつあるなあということを思いましたね。
逆に、このような授業なら、私が’もっとも得意とする’ところで、どっかで集中講義でもひとコマの授業でもさせてくれないかしらん。
とマジ!で思っています。
しばやん for Sale!ということで、じわじわと学会に売り込みをはかっていきたいと思う今日この頃です。
ではでは^^?