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カテゴリー「1.メッセージ」の21件の記事

研究者として生きるか、もしくは実務者の立場をつらぬくか?

みなさん、こんにちは。

 

こちらのブログも、すっかりアップが滞っていましたが、今年(といっても年末の12月ですが)から、改めてリニューアルして、再開することにしました。

 

 

思えば、この3年間、修士論文に取り組んできたわけですが…。

 

 

 

はい。残念ながら、通常の2年を1年延期の3年ではなくて、早くても3年半あるいは4年間修士課程をやることが、ほぼほぼ確定してしまいました。

 

 

 

まあ、愚痴になってしまうのでやめますが、やっぱり研究は難しいですわ。社会人院生なので、最初から長期履修制度を利用して、4年間までは、2年の学費で学校に通うことができるので、学費の面での追加支払いはないのですが、10月末の段階で、9割方、論文を追い込んでいたので、受け付けてもらえないことわかったときのショックは大きかったです。

 

 

 

本当の修士論文の提出は、1月上旬なのですが、われわれの研究ユニットは、2か月前なんですよね。その締め切りに間に合わなかったというなんとも情けない話で、勝手に私が未完成稿でもいいと思い込んでいたのですが、完成稿をだすという、最初からの指示を無視した形になってしまい、今にして思えば、なにを自分が勘違いしていたのだろうと、自分の馬鹿さ加減にあきれて、なんともまあ、といった次第であります。

 

 

 

結局、提出期限の時点で、一番、重要な論文の肝の部分が完成していなかったのは事実で、そこなしては、論文が成立しないので、とにかく今は、肝の部分を中心に煮詰めて?いるところです。

 

 

 

閑話休題。

 

 

 

さて、こちらのブログの件ですが、最初は、サブタイトルに、「…学習編」としていたのを、途中で、「…研究編」に変えました。

 

最低でもあと半年は、院生生活が続くわけですが、再度、今の時点で、サブタイトルを変更しようと思います。

 

 

 

何がいいかと思ったのですが、「…共有編」としてみたらいかがでしょう。

 

 

今回の、論文未完成事件(事件かよ)での教訓は、思い込みは恐ろしいということと、「ストイックな(自分磨き?の)研究」もいいけど、そもそも自分の原点は、別のところにあると思いなおしました。

 

 

 

つまり、1991年の大学生時代に決めたことは、「学問のための学問はしない」、「知は力なり、ただし、それは開かれたものでなければならない」ということで、学者コミュニティに入るための通行手形としての、修士論文や博士論文は、それはそれとしてやらなければならないとしても、別に学問の世界で覇を競う(ほどの実力も時間もない)つもりは全くないので、アカデミックなしばやんがあってもいいけど、普段着のしばやんとしては、そこから離れたところで生きていこうと思います。

 

 

 

ということで、タイトルについての、今の時点でのわたしの答えは、研究者オンリーの道は、たぶんないだろうし、自分もそれは積極的には望まない。

 

 

実務者といっても、いまさら、開発コンサルタントの一線に戻る気はないし、10年も経てば、最先端は、はるかな先にいってしまっている。だから、「つらぬく」ほどの立場もすでにないわけですが、実務の世界も知っていて、なおかつアカデミックにも、冷やかし半分以上に足を突っ込んでいるという、ポジションを最大限に生かして、これからは、後進の育成に力をいれたいと思います。

 

 

 

ということで、この12月から、名古屋を拠点に、中部圏の大学生や高校生に対して、国際協力をプロとしてやっていきたい人たち、もちろん社会人でもシニアでも、たんなる(といっては失礼ですが)ボランティアとはちがったプロフェッショナルな世界をみせて、実際に、自己実現をそのステージではたしてほしい、そんなセコンド、あるいはアシスタントをしてみたいと思うようになりました。

 

 

 

なので、このサイトも、学問にもビジネスについても、より深くコミットした内容にしていきたいと思います。

 

 

要は実務者として、使える知識や経験を、そのままアウトポットしていきますので、(学)からは少し離れるかもしれません。

 

 

 

しかし、わたしの開発民俗学研究の守備範囲には入っているわけなので、看板と大きく異なることはないと思います。

 

 

 

以上、近況報告と、今後の展開について、書いてみました。

 

 

引き続きのご指導ご鞭撻を、よろしくお願いいたします。

 

 

 

柴田 英知

 

 

2018年12月7日 名古屋栄の新オフィスにて

「生涯一学究」 吉川英治と空手バカ一代(大山倍達)

みなさん、こんにちは。

久方ぶりにこのブログをアップします。

2016年4月より、名古屋市立大学大学院人間文化研究科で、社会人大学院生をしているわけですが、みごと!修士2年目で足踏みをすることになりました^^?

本来、この3月に修了予定でしたが、昨年の11月の地域づくりに関する研究のユニット発表までに修士論文をまとめることができず、したがって、今年の1月11日の大学院提出もできず、昨年12月から本当にこれからどうしようかと身の振り方を思いあぐねておりました。

昨年8月半ばに期間雇用社員として郵便局で夜勤をしたいたのを辞めて、残り2か月修士論文に専念する予定だったのに、結局、最後まで修士論文で解くべき「リサーチクエスチョン(研究課題)」を絞り込むことができずに、自滅といいますか。まったく悶々と2ヶ月をダラダラと何をするわけでもなく、むろん修論には全く手をふれることなく時の流れに流されていましたが、11月で提出が無理だと決まってから、では、残り半年あるいは一年どうしようと、またまた悩んでいましたが…。

年明けになって、実は、この2,3週間ですが、ようやく次のステップがみえてきました。

正直にいいます。「研究者、あるいは研究をするということをなめていましたm( )m」

いろいろ先生や仲間のアドバイスもあり、結局、修士論文では解ききれない問題を詰め込んでいたこと、勝手に、自分でハードルを上げ過ぎていたことが、ようやくわかりました(それまで何度となく外部から指摘されていたことですが)。

それともう一つの契機は、先生に勧められてとにかく私が一番の典拠として研究で使いたかった一次資料そのものの整理を始めて、形にしだしたら、ようやく頭も働きだしました。いくら頭の中でぐるぐると考えていても、手を動かさないと全然、見えるかたちにならない、全然作業が進まないということにも、今回、気がつくことができました。

11月半ばから始めた資料の整理(論文化)により、ようやく次のステップがみえてきました。つまり、この整理だけで論文一本になるということ。そして自分が愛知用水の課題として取り上げようとしていたトピックたちは、それぞれを一本の論文として切り分けて個別に問題を解いていった方がよいこと。その論文を積み重ねることによって、博士論文になるではないか。

この1カ月弱で、結局、博士論文の全体構成がみえてしまったのです。

ということで、修論は小さくまとめて、修論で扱えない問題は、別の論文に回します。つまり博士(後期)過程への進学を決意しました。

おりしもといいますか、ちょっと学内の指導体制も4月から変わることになったのですが、自分としてはベストな環境で次の一年を迎えることができそうな予感がしています。

ちょっとこれだけで長くなってしまったので、タイトルについては、一言だけふれておきましょう。

「生涯一学究」、これは、この数年間たぶん5年くらいずっと考えていたことですが、文章で公言するのは初めてです。

そして、その元になるのが、吉川英治の「生涯一書生」、「吾以外皆師」という言葉で、それを教えてくれたのが、空手バカ一代(といっても若い人は知りませんよね)と梶原一騎の劇画のモデルである極真会空手の総帥大山倍達(マス・オーヤマ)です。

この大山倍達 『空手バカ一代 私の空手道人生 輝く日本の星となれ!』 講談社 1973 というこれまた熱いタイトルの著書には、ほかにもいろいろいいことが書いてありまして、それを紹介したいと思ったのですが、稿を改めます。

ではでは^^?

いざ、“言葉”を探す旅へ 開発民俗学への途 第三ステージへ

みなさん、こんにちは。
ご無沙汰しております。
先日、11月13日(日)に名古屋市立大学の大学祭で、大学院の仲間と、地域づくりに関するシンポジウムとセミナー、パネル展示なとをおこなうことができました。
5月の参加の応募から、地域づくりユニットの院生仲間と、いろいろディスカッションを重ねて内容の検討から講師の選定・出演依頼を経て、なんとかかんとか終えることができたといった感じです。本当に、仲間の熱意と、大学の先生方、学生係の方など周囲のご理解とご協力がなければ、全く形にならなかったと思います。重ねてになりますが、みなさまに感謝感謝の日々です。
当日の、「名市大地域づくり劇場 全四幕」では、県下の市民活動の実践者の講師のみなさまの実践報告と、フロアとのパネルディスカッション、終了後の懇親会と朝から一日、熱い議論がなされました。
いろいろな重要な論点はあるのですが、ここではあえて自分の今後の活動に引き付けて、このシンポジウムをおこなってみなさまから受けた刺激をどうつなげていくのかについて述べたいと思います。
まず思ったのは、ゲストの人びとの実践活動について、ほとんどの参加者は知らないという事実、たとえば「おやこ劇場」(広中さん)という活動については、知っている人は知っているが知らない人は全く知らない。岡崎の籠田公園の芝生緑化についても、今、この公園を初めて訪れた人は、最初から「こんなものだ」と思ってしまう。今の状態に至る過去の経緯やその中で活躍というよりむしろ苦労した人たちのことは知らなければ知らないままで済んでしまう。これは、桜山商店街でまちプロジュースのメンバーが工夫しておこなっている「まちとーーく」や菅原さんが豊田市で試みた「つなぎすと」の養成についてもしかり、正直、知っている人のほうが少ないでしょう。
しかし、確実に、彼女らの活動を頼りにして、またそれから影響を受けて自分の生き方や行動や考え方を変えて自分の生につなげている人がいる。これもまた事実です。
今回は、本当にたまたまですが、講師の4名とも女性で、失礼ながら全国区の有名人ではありません。しかしながら、この実践を通じて得られた体験に基づく“言葉”は、少なくとも参加者には説得力と実在感を持って受け入れられたと思います。つまり、人のまねごとの誰かが言っていたような空虚な“言葉”ではなく、実体をもった“言葉”であるのです。
私自身、さまざまな経験から多くを学んでいますが、特に若い人たちに対して、「体験が全て」というつもりは全くありません。そもそも若者に体験や経験を期待することは無理ですし、逆に大昔の過去の栄光の体験や経験をもって説教された私としても、そのような先輩に対していやな思いしかありません。
教えたり諭すのではなく、ありのままの体験や経験や考え方を話し合うことにより、互いに気づきあう。経験絶対ありきではなく、どれほど空想的な夢想でも希望でもいいじゃあないですか。少なくとも自分の知らない“何か”を信じて考えている生きている他者が、この地球上にいることを知ることは、たとえ何百歳になっても必要なことであるし、実際に、全ての人間そのものが不十分で不完全で、万物を知るもの(たぶんそれを神をいう人々がいる)に絶対になれるはずもわけがないのです。
結局、われわれは、「単なる人間」であることに甘んじなければならないし、それ以上でもそれ以下のものでもない。その「単なる人間」として社会や他者と交わっていかざるを得ないわけです。
ただ、今回のシンポジウムを聞きながら、また自分でも話をしながら思ったことは、どんなことでも「言葉」として表せられないと、人間世界では「認識」されないということでした。世の中ちまたにたくさんの生の営みがあり、よい事も悪いことも含めてさまざまな‘世の中’の動きがあります。
しかしながら、コマーシャルなニュースになるのは、海の砂の一粒もなく、学術研究でさえ、人間が生きる世界(宇宙を含む)のほんのほんの一部のことを取り扱っているにすぎません。
私は、日本発信の「開発学」ということにこの15年ほどこだわって生きてきましたが、それは具体的に何をすることなのか正直わかっていませんでした。
ただ、今年の4月に大学院に入って講義に出て先生方の話しや自分の研究を進めるうちに、少なくとも学問の世界で、人類に貢献(なんとおおげさな)には、“言葉”で人びとの生を拾っていることしかないことに気が付きました。
今まで、開発援助の世界で働いてきて、どうにもしっくりこなかったのは、世界中のどんな辺鄙な途上国でさえ、それぞれの地域に固有の考え方や生き方があり、たとえ“英語”や”フランス語”など先進国(とされる)西欧(近代)文明国の“言葉”とは発音も綴りも(文字すらない場合もありますが)まったく違っても、たぶん人間が生きていくのに必要な“智慧”を示す言葉は以前からあったし、今でも常にあり続けたという事実です。
つまり、近代的に“開発”されなくてもすでに、その地にあった人間の生は保証されていたということを、あまりにいわゆる頭のいい人たちは、見逃してきたのではないか。
昔、ギリシア人はアフリカ北岸のアルジェリアの人たちを「ベルベル人」すなわち「何をいっているのかわからない人」だと決めつけ、自分より劣ったものとしました。イスラームを受け入れたベドウィンの人たちは、イスラーム化する前の自分たちの先祖の時代を「ジャーヒリーヤの時代」すなわち「無明時代」となずけました。
他人事だと笑ってはいけません。今、世界の最先端をいっていると自負している西欧のひとたちですら、ルネサンス(再興)の前の時代を、「暗黒の中世」と呼びつけ、今の自分の生きている時代より劣ったものだと決めつけたのです。これは、古今東西どこでも大昔から人間、特に支配(したがる)者が繰り返してきた常套手段で、エジプトから中国からたぶん人間が文明を発明した時から、ずっとやり続けてきたことなのです。
今の視点でみればどうなのか。少なくとも、われわれはアラビアのイスラーム時代の前が無明時代ではなく、「幸福なアラビア」であったことも、中世が暗黒時代でもなかったことはわかっています。しかしながら、今、現在の20世紀について冷静に判断することは、ほぼ不可能に近いでしょう。
何がいいたいかというと、パラダイムが変わると世の中の考え方すなわち常識自体が変わってしまうということ、パラダイムが変わる際には、必ずほぼ間違いなく「新しい価値観」を表す“言葉”が生まれてきたし、これからも生まれていくだろうという事実です。
今、私は社会人経験ほぼ25年での経験をもって学位論文をまとめようとしています。これは、13年前に手探りで始めた「開発民俗学への途 第一部」の順当で正当な「第二部」ではあるのですが、その先に来るものは、別に“学問”でなくてもよいのではないか。
ふとそんなことを思いました。
論文をまとめつつ、心は次のステージへ。たぶん、私は、新しいパラダイムを示す“言葉”を探しに、次なる旅に乗り出すことになるのだろうと思いました。
その“言葉”は当然、今自分が立っている足元にある。それは、ほぼ間違いなく地球上のどこかである。日本でも先進国でも開発途上国でも、どこでもが「現場」となりえます。たぶん、どこかの「現場」に足をつけながら、私は“言葉”を探していきたい。それは、ほぼ間違くなく「日本語」だけではない。私は、日本や日本人だけをみているわけではなく、地球という環境に生きているわけで、地球上の人びとが“仲間”なのです。
したがって、便宜的ですが、「英語」なり、世界中の誰もが理解できる「共通認識を表せるような言葉」を探さざるを得ないし、もしなければ、新しい”言葉”をつくってしまったほうが早いのかもしれませんね。つまり、その〝言葉”は日本語や英語で解釈ができるが代替はできないという〝言葉”です。〝Kaizen”とか”Mottainai”とか、日本語起源である必要もありません。
こう考えていくとオリジナリティや起源を尊重するとすると、ローカルな概念と言葉を、グローバルに世界で流通するようにするということが、その解答となりうるかも知れません。この戦略は多元的な地球の価値をつくっていくという意味で、二重の意味で重要なことです。具体的には、ローカル起源の考え方や言葉を英語などで解説し、世界中で理解できるように解説していく。完全に人造語ではなく、世界のローカルな概念を、そこで使われている”言葉”と共に世界中で理解できるようにしていく。これこそが、〝言の葉”拾いの世界行脚ということになりますね。
結局、日本人だけのためでなく地球人が読んでわかるものを書かなければならない。特に途上国の〝言葉”を持っていないと思われている人たちのために。
そのために、どこへ行くのがベストなのか。今の時点では、まったくわかりませんが、たぶん何かに導かれていくのだろうなあと思います。
とりあえずは、「今やるべきことをきちんとやっていくこと。」これは社会人になって7,8年目ごろに自分の父親ほどの年齢の先輩コンサルタントから口を酸っぱくして指導されたことでもありました。自分が世の中で、学ばせていただいたことのいくつかでも次の世代に継承していければよいと思います。
まだまだスタート地点にも立っていない。でも前に進むしかない。
そんなことを今、考えています。
ではでは^^?

 

Japanese Folklore and Development (開発民俗学)の提唱(今後の展開方向)

今まで、ずっと「開発民俗学」の適切な英訳(意味としてもことばとしてもしっくりくる)を考えてきたわけですが、2016年10月30日の朝に、ふと思いつきました。
そうだ、素直に、「Folklore and Development」でよいのではないかと。
最近、愛知用水の研究に取りかかっているのですが、その過程で、山崎延吉を知ったことがきっかけでした。その中で、柳田國男の民俗学と農政学、さらには農本主義との接点についての疑問といいますか関心がでてきたのです。
山崎は、明治の6年(1873年)に石川県の金沢に生まれ、東京帝国大学農科大学を卒業し、愛知の碧海郡(現安城市周辺)の安城農林学校の校長かつ愛知県の農政にかかる要職を歴任してのちに帝国農会の主席幹事や国会議員などとして、日本の農民教育と農政に深くかかわりました。
山崎延吉研究には、膨大な研究蓄積もあり、いろいろな論点があるのですが、私の愛知用水研究とのからみでいれば、もともとは愛知用水事業の推進者であった篤農の久野庄太郎、農業技師の浜島辰雄を中心に調べようとしていたのが、どうしても彼らのお師匠さんであった山崎延吉が彼らおよび愛知用水事業の推進に果たした役割自体を深く調べざるを得なくなったというのが本当のところです。
それらの詳細については、修士論文の中で明らかにする予定ですが、山崎延吉を調べようとすると、少なくとも下記のキーワードを押さえることが必要となってきます。
・「安城農林学校」で展開された「開かれた学校」に代表される農民教育方針
・「日本デンマーク」大正から昭和初期に全国的に有名となった愛知県、特に碧海郡の農業先進地。
・『農村自治の研究』 明治41年(1908年)に出版され幾度も改訂を重ねた延吉の出世作。
・『農村計画』 昭和2年(1927年)に出版された「都市計画」に対する農村振興策。
・「農民道』
・「農本主義」
・「帝国農会」
・「小作争議」
・「農村経済更生運動」
・日本の植民地時代の朝鮮における農村振興五ヵ年計画における農村指導
・「全農学校」
・「興村行脚」 本格的には明治39年(1908年)から昭和29年(1954年)の没まで継続的に行われた「農民へ働きかける目的で農村を講演旅行すること」(神谷2001、132頁)
一言でいえば、明治末から昭和初期の日本の農村振興のための農民教育を体を張って実践した人ということでしょうか。「興村行脚」として、日本国内ばかりか台湾、朝鮮、満州に足を伸ばしています。日本農政の神様といわれた中央官僚かつ政治家の石黒忠篤が山崎延吉の銅像によせた讃文によれば、
「先生は愛知農業発展の原動力たるに止らず、各地よりの懇情に其席暖まることなく、行脚の足跡全国台朝に汎く講演の回数一万五千を超えた。嘗て先生の啓発指導に浴したる多数の人は皆其高邁なる識見堅実なる実行を敬慕して忘れ得ぬであろう。」(神谷2001、9頁)
とあります。実は、今年の夏休み、愛知用水というよりむしろ山崎延吉の資料ばかりあさっていました。さいわい、山崎延吉の拠点、安城市は私の住む岡崎市の隣の市で、私の家のすぐ近くの愛知県立農業大学(以前の、追進農場)は、まさに山崎延吉が指導した愛知県農業試験場の下部機関でした。
ともあれ、この数ヵ月、山崎延吉を調べれば調べるほど、彼が愛知用水事業推進に直接間接に果たした役割の大きさと、彼自身の魅力というものに感じ入りました。
ここで疑問というか、課題として浮かび上がってくるのは、そもそも日本の「農本主義」とはなんであったかということがまず一つ、そして私が追及している「民俗学」とは、そもそも何が母体となって生まれたのかという疑問です。
実は、今年の初めに、『民俗学・台湾・国際連盟 柳田國男と新渡戸稲造』講談社選書メチエ(2015年1月)という佐谷眞木人という本を知りました。それ以前にも、柳田國男と南進政策(植民地行政)との関わりについては、川村湊 『「大東亜民俗学」の虚実』 講談社選書メチエ 1996年)という問題提起の一般向け書籍もあったわけですが、佐谷さんの本のほうが、より直接に柳田の心根に迫るような分析を加えていました。
つまり、農政官僚であった柳田がなぜ、民俗学を起こそうとしたのか、その一つが、「国際連盟」の委託統治委員としての挫折と、実際にヨーロッパに足を落として柳田が悟ったこと、それに加えて、なにかもっと決定的なものがあったのではないか。
そのミッシングリンクを、先日、たまたま名古屋市立大学の図書館で見かけた、この研究者の著作が埋めてくれそうなのです。
藤井隆至 『柳田国男 『産業組合』と『遠野物語』のあいだ』 「評伝・日本の経済思想」 日本経済評論社 2008年8月 
藤井氏の著作を調べてみるとさらにこのような大著をあらわしていることがわかりました。
『柳田國男 経世済民の学 -経済・倫理・教育-』 名古屋大学出版会 1995年9月
ようやく手元に届いたところなので、両著とも読み込みはこれからですが、自分としては、一つの結論といいましょうか、今度の研究の方向性がみえてきた気がしています。
今まで、開発民俗学をどのように英訳しようかとずっと悩んでいましたが、ドイツ語起源の「folklore」の精神を柳田が継承したのであれば、フォークロアの原義に含まれる「開発に対抗する後発国としての民族運動」がすなわち「開発民俗学」そのものであるから、あえて「開発」を「民俗学」に付け加える必要はなく、もとより「フォークロア」が含んでいた「開発」を表にだしさえすればよい。
という、シンプルな結論になります。つまり、「開発」と「民俗学」を並べればすむ話で、「開発」の「民俗学」、Folklore of Development や Folklore in Developmentと英訳する必要はない。また、Folkloreにかわる英語を新たに探す必要もなく、Folkloreの内在する意味をはっきりさせるために、Folklore and Development として、日本人以外の読者向けには、Japanese Folklore and Development とあえて「日本の」開発民俗学という言い方をすれば、Folkloreの学問としての可能性を開くことになり、これは、結果として柳田國男の「一国民俗学」を「世界民俗学」に開くことにもつながるという結論(作業仮説)にいたりました。
※上記の記載は、私の今までの研究の成果から自由に作文していますが、日本の民俗学の位置づけや起源について、この本がよくまとまっています。こちらの「フォークロア」に関する説明なども参考にするつもりです。
新谷尚紀 『民俗学とは何か 柳田・折口・渋沢に学び直す』 吉川弘文館 2011年5月
当然、裏付けの研究はこれからですが、この先、5年の私が提唱する「開発民俗学」の方向性が見えてきた気がします。
「開発民俗学の展開 2016年~2020年の中期計画
開発民俗学の研究・実践を次の3つの区分においておこなう。
1.理論研究
「Japanese Folklore and Development, Preliminary Study」というタイトルで、2020年を目標に英文で論文を発表する。
1-1 諸外国における民俗学の起源と現状
日本の民俗学にあたる外国語にはいろいろなものがあります。一番近いとされるFolkloreについても各国でとらえ方が違うようです。そして、Folkloreは、AnthropologyやSociologyともEconomicsとも違うとされています。ここでは、世界に通じるfolkloreの意味とその起源と現在におけるニュアンスについて確認をおこないます。これは、日本の民俗学を説明するにあたって避けて通ることができない最低限の準備作業です。
1-2 柳田國男、折口信夫、渋沢敬三、宮本常一らの民俗学者の「開発」現象に対する想いと考えを確認する。
1-3 上記では主に柳田國男と渋沢敬三、宮本常一にあたるかと思われるが、民俗学者と農政実務家との関わりと「開発実践」について検証する。ここで農政実務家として表にでてくるのは、新渡戸稲造、山崎延吉、石黒忠篤、安岡正篤、那須皓、東畑精一らがまずあげられよう。
1-4 結論としては、「日本の民俗学は、近代資本主義の日本への浸透という緊張関係の中で生まれ、都市部というよりむしろ農村部の疲弊に対する貧困対策を、過去の先祖の生活の知恵に探ろうとした実践学であり、農政への還元はのちには希薄となっていたが、少なくとも柳田國男と宮本常一は現場での調査と実践を中央の政策レベルに結び付けようとした足元からの社会変革のための「学問」であった」という側面があったことを証明する。
1-5 世界民俗学に向けた提言
上記で検証したfolkloreとdevelopmentとの関わりを基盤とした、開発人類学(Anthropology of Development, Development Anthropology)とは違う「Folklore and Development」の研究方法と実践の可能性について提言をおこなう。
2. 事例調査(ケーススタディ)
2-1 「愛知用水の研究」として、修士論文として2018年3月までにまとめる。
地域の重層性とチェンジエージェントの役割を中心に、愛知用水事業を「文化運動」としてソーシャル・イノベーション論で読み解く。ディスプリンとしては、「イノベーション普及学」をベースに、社会関係資本(ソーシャルキャピタル)論、ネットワーク論、開発コミュニケーション学、地域開発論、参加型開発論など、地域と開発にかかわる議論と方法論を駆使して事例分析をおこなう。
2-2 フィリピンの地方開発論
詳細は未定。できれば、フィリピンへの開発コンサルタント時代の2004年3月から2008年6月までの駐在期間におこなったフィリピンの農業行政機関と現地調査の経験を生かしてフィリピンの地域開発についてケーススタディを行いたい。
3.開発実践
3-1 日本の地域づくり、まちづくり、むらおこしへのコミットメント
適宜、必要と自分の関心に応じて、地域づくりでがんばっている人を応援する中間支援をおこなう。
3-2 地域開発に関するコンサルティング
これは、上記とは違って契約ベースで調査やコンサルティングを行う。クライアントとしては市町村などの行政組織、民間企業やNGOやNPOなどの各種団体。国内外を問わない。
3-3 開発民俗学に関する情報発信
研究成果や実践の過程を(クライアントとの守秘義務に反しない範囲において)、私のもつブログやホームページ、SNSなどのチャンネルを通じて適宜、世界に対して発信する。
私の情報に関するポリシーは、基本、「公開」が原則で、それは、「知は力なり、ただしそれは開かれたものでなくてはならない 柴田英知@1991」というクルドによる。」
以上を、この先、5年ほどの行動指針としてみました。
関心のある方のコメントや応援・激励、議論をお待ちしております。
これは軽く読み流していただいて結構なのですが、私のこの5年の活動の悲願は、自前の研究機関を採算がとれるように独立させることです。スポンサーの申し出をお待ちしております。
もちろん、競争研究基金の獲得にも努力しますが、やりたいことに対して時間と先立つお金が、全然足りません。フィリピンでのフィールドワーク、書籍資料の収集、興村行脚のための旅費などお金にある程度余裕がないと、最低限、必要なことすらが実現できません。
まずは、社会から必要とされるコンテンツ(中身)がないとはじまらないのですが、個人の努力プラスアルファの要素が必要だとも感じています。
ともあれ、「幸せに生きたい」とねがうわたしたちの、障害を取り除くための知的な貢献をしたいと考えて実践してきますので、ともに「歩く仲間」の常時募集をしております。
ではでは^^?
柴田 英知

 

チェンジエージェント考~旅する職能集団

久しぶりに記事をアップします。


今年の4月から名古屋市立大学の大学院に通っているのですが、ようやく大学院での講義だけではなく、仕事も含めた一連の生活にやっと慣れてきたところです。

ともあれ、9月最終週から後期に入って、ようやく研究の方向性を調整しつつあるところです。

確かに、愛知用水という題材を修士論文という形に落とし込むためには、先生方の指導もあり、たぶん、それはそれとしてやっていけそうなのですが、はて、本当にやりたいことってなんだろうと思ったときに、結局、下記に要約されるのではないかと思いました。

「開発コンサルタント」論というより、その生き方そのものに、私は一番関心があるし、明らかにして世に問うべきものだと。

べたな青臭い考えかもしれませんが、私は、本気で、今の世界を変えていくことに関心をもっています。ただ、自分が何もしなくても地球はまわっているし、世界はどんどん自分とは関係なしに変容しています。

だが、果たして手をこまねいて世間に流されるだけで、自分は生きている意味はあるのか、自分が生まれてきた意味があるのかと思ったときに、やはり川の流れに棹をさすと申しましょうか、少なくとも自分なりの価値観=「真善美」に基づいて、世界や世間に対してコミットメントしていく必要があるのではないか。

そのよりどころになるのが、自分にとっては、たままた出会って歩いてきた「アラブ・イスラーム」への関心であり、職業としての「開発コンサルタント」というものです。

国際開発コンサルタントの一番の醍醐味を、以前、私は、「大臣まで最貧層まで相手にできる」と看破しました。世界の開発援助の現場で、このような役割を担えるのは、「コンサルタント」という職能者しかありません。

その「開発コンサルタント」の資質として、一番、大切なものは、ずばり、「チェンジエージェント」としての役回りができるかということです。

私は、「優れた開発コンサルタント}=「究極のチェンジエージェント」であるという現場でみてきた諸先輩方の実態(実績)と同時に、そうであるべきという強い個人的な思いがあるからです。

もう少し、話を普遍的なものにすると、古今東西の旅する「職能集団」は、すべからく「開発コンサルタント」としての機能を、常に異郷の地で果たしてきました。

そうです。この「旅する人々」が、ずっと私が子供のころから追い求めてきた憧憬(ロマン)の対象でありました。

これは、私がアラブ・イスラーム地理書に象徴されるような、旅する人々のことを考えれば容易に導かれる簡単な類推であると同時に、歴史的にも事実であると思います。

そして、「チェンジエージェント」のもつ「よそ者性」について、私は一番、関心を持っています。この「よそ者性」こそが世界を変える、いや変えてきたと私は思うのです。

「よそ者性」、それは、広く世界を旅するものが、不断に持つもの。風の人が持たざるを得ない宿命とでもいったものでしょう。

ただ、そうはいっても、その「よそ者性」が、ひとびととひとびとをつなぎ、現状を打破するブレークスルーとなる破壊力をもった「危険なもの」であることには留意をしなければなりません。

大体、預言者は、自分のコミュニティーには受け入れられず、「石もて追わるるもの」であり、いくら正しく、よいことをしたとしても「人柱」とされる可能性が極めて高いもの。

私が、「開発民俗学」などというのは、このチェンジエージェントのもつ「異人性」、「よそ者」と伝統社会との軋轢にこそ、価値と未来への可能性があると信ずるからに相違ありません。

結局、ひとつひとつ実証を重ねていくしかないのですが、ふと、初心を振り返ってみる必要性を、今の時点で感じました。

愛知用水の研究もまた、そのようなところにアドレスしていかなくてはと思います。

雑駁な感想ですが、たぶん、私の研究の最上位目標はこれだという確認でした。

ではでは^^?

開発民俗学をめぐる冒険 カケラを拾い集める旅

みなさん、おはようございます。

今回は、まったくの裏話のつぶやきです^^?

とある若い仲間が今年の4月からの大学院進学を決めました。その方は、大学時代にスタディツアーでいったとある国で少数民族に行きあい開発と権力について深く感じられ自身でNGOを立ち上げたり、同地で活動する国際機関の現場事務所に頼み込んでインターンをさせてもらったりと、まあアクティブに実践の道を歩まれているわけですが、ふと進学前に、立ち止ったわけなんですね。

それは、自分が以前にフェイスブックに書いた記事をシェア(引用)する形で、今の思いをつづっているわけですが、一言でいうと、その時に感じた自分の想いを深めるために今の行動をしているというわけです。

私も、つくづく、さもありなんと思って、下記のようなメッセージを書き込みました。

「私もブログやホームページを2000年からやっていますが、自分が書いたことって意外と忘れがち。時に道に迷った時に、ふと昔の自分の言葉に励まされるってことはこれからもずっとあるはず。そんな昔の言葉をみて思うのは、結局、自分ってあまり変わっていないなあということ。

生きる上での根っこの根源的な問いというのはたぶん15歳くらいできまっちゃっているんじゃないかなあとも思います。そして自分の問題は、自分よりはるかに優れた人でさえ、私の代わりに解いてくれないということ。結局、自分の宿題は自分で解くしかない。

最後にひとこと。やはり続けていくことが一番大事だと思います。私も46歳にしてようやく、大学院。問題解きのスタートラインに立ったところだと感じています。またどこかでお会いしましょう!」

その絡みで思ったのは、自分の考えや想いは一体どこにあるのだろうということ。

みなさん、日々、いろいろなことを考え行動していると思うのですが、その行動の元になる心で感じたり頭で考えていることって、一体、どこにあるのでしょう。

私は、大学時代、アラビア語の先生から、「情念」という言葉を教えていただきました。でも大体、普段の生活ではそのような言葉は使わないですよね。一体、どんな文脈でその言葉を先生が話されたのか忘れましたが、もしかしたら、それはその先生のお気に入りのキーワードだったのかもしれない。

私も、その後、「情念は時空を超えて」などという風に、知ったかぶりで使わせていただいていますが、何が「情念」を「時空を超え」させるのだろう。

それを考えると、結局、「言葉」と「モノ」だと思うのです。私は、「モノはモノであって、(単なる)モノでない」というような物言いをします。

男の子らしく?オーディオやカメラとかいわゆるギニックが好きなのですが、別に工芸品でなくても人が作ったモノすべてに、それを作った人の想いや思想がこめられています。以前、プラモデルも好きでミリタリーフィギィアもいろいろ研究?しましたが、兵器と考えるとおぞましいのですが、戦車にせよ車にせよ、それぞれのお国柄といいましょうか、明らかに設計思想には哲学があり、モノとしての機能美があり、何にどう使うかはさておいたところでの美しさがあることは間違いありません。

ちょっと脱線しましたが、この15年の自分を振り返ってみると、結局、自分の頭をクラウド空間、ウェブのインターネット上に置いてしまっているような気がします。

なぜ、自分しか関係ないようなことを、たとえばこのブログに書こうとするのか。自己顕示欲?自己満足、人にえばりたい気持ち?ナルシスト、まあ、どれもあたっているかもしれませんが、自分にとっての一番の効能は、頭の考えを「文字」として固定できるというところにあります。

よくノートの効能として、忘れるために書くなどと言われますが、ノートというモノに書いてしまうと、場所は取るし、紛失する、もしくは物理的に処分しなくてはならないときもあります。何よりまずいのは、段ボールに詰めて物置にしまいこんでしまったら、もうその内容も、ノートの存在さえも忘れてしまうのです。

だから私は、ブログなど電脳空間に投げ入れてしまいます。ただ、それにも問題はあってブログにせよホームページにせよ、階層が深くなればなるほど、その記事そのものを探すことが難しくなります。どこかにはある。でもすぐにアクセスできない。ということで、グーグルなどの検索技術そのものが、今日では重要になってくるわけですね。また断線しましたが^^?

いや、ほんと、自分でも確かこんなこと書いたはずだけど、どのブログのどのページだったっけと、探してしまったり、書いてしまったこと自体を忘れてしまっています。でも、私はノートや紙切れに書くよりウェブに残しておいたほうが、まだ探しやすいと思います。

あと、自分がまったく忘れていた記事を、他人のごとく初めて読んだ気持ちになることもまた快感?です。何か、いいこと書いてあるじゃん。って、これを書いたのは俺か!ということが最近ありました。逆に凹んだときには、書いたことが自分を責めたりもします。偉そうなことを書いておきながら、行動や実績が伴っていないじゃないか。穴があったら入りたいと思うこともありますが、それでも、その書き込みを消さずに置いておくと、時間が経ってみたらいつの間にかできていたり、それほど深刻なことでもなかったということもあります。

ともあれ、私が書いた記事は、先日思い立ってブログやHPの記事をプリントアウトしてみようと思ったら、A4で数千枚ありそうです。(印刷用紙が途中でなくなってしまったので、まだ作業中ですが)

さて、そんなに書き散らしたモノは、一体、どの空間をさまよっているのでしょう。たぶん、自分でもとっくに書いたことすら忘れてしまったカケラを拾い集めつつ、また新しいカケラを撒き散らしていく。

たぶんこれからの数年間は、カケラを拾ってはつなぎ合わせて、なんらかの形のあるモノとしていく。そんな過程の繰り返しなのだろうと思います。

そうそう、そのためのプラットホームが「クロスロードオブハッピネス」というホームページです。それが私のコンサルティングのベース基地となるものなので、近日中のオープンを目指します。

ではでは^^?

おまけ。

<私の書き散らしたカケラたち (たぶん開設順)>

一部、更新が滞っているものもあり赤面の至り。でも、この際に、全体構成を考えてやり直します。


しばやん@愛知がお贈りする開発援助とアラブ・イスラーム研究についてのHPです。国際協力や地域研究、特にアジア・アフリカ地域に関心のある方のご訪問をお待ちしております。


歩く仲間の最新の記事はこちらでご覧ください。歩く仲間HP(オリジナル)とは内容が重複していないトピックもあります。


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開発民俗学への途・・・学習編 (このブログですね。実はしばやん's ワールドのごく一部です^^?)

開発民俗学の学習編です。しばやんの大学院課程への進学準備からをリアルタイムでアップデートします。


SNSであるミクシイのコミュニティです。公開グループなので、閲覧可能です。書き込みにはミクシイのメンバーである必要があります。

ではでは^^?

人生の究極の目標・・・自分ブランディング再考

みなさん、こんにちは。

ご無沙汰しております。久しぶりに新しい記事を書きます。

今、同時並行で3つのプロジェクトをまわしているので、ごだごだと前置きばかりを綴っている余裕はありませんが、改めて自分のミッションというのを確認してみました。


1.人生の究極の目標(大目標)

世界に通用する自立した裸足の研究者になる。

※‘裸足の研究者’とは、鶴見良行が1970年代の後半からPARC(アジア太平洋資料センター)のアジア塾(アジア研究会)で育てようとした「自前の研究者」のこと。(鶴見良行『東南アジアを知る-私の方法-』 岩波新書 1995 の全体および村井吉敬の「解説に代えて」p221を参照のこと。)

だたし、私にとっての‘研究者’の意味は、「知は力なり、。ただしそれは開かれたものではならない」という自分の信念を実現できる存在であるということで、職業や肩書のことをいうのではありません。


2.そのために必要なこと。


2-1 その時々に出来るベストをつくす。 【大前提】

全ての行動原理の根本におく。限られた時間とリソースを最高のパフォーマンスにつなげる。


A.継続するために・・・自分であり続けるために。 


2-2 健康であること。【普段】

糖尿病の気があるので、ヘモグロビンの数値が標準以下になるまでは禁酒する。
そして日々の体力づくりと、メンタルケアに努める。


2-3 誰のために何をやっているかを常に意識すること。【普段】

私欲に固執してひとりよがりにならないように気をつけ、自分の言動に責任を持つ。


2-4 目先のことに一喜一憂しない。【普段】

全てのことは必然であり、まぐれや偶然はないと思うこと。あと、お金は絶対に簡単に片手間で簡単に稼げるものではないことを肝に銘じておくこと。


B.世界に通用するために

2-5 英語で発信ができるようにすること。【10年以内】

世界に通用するためには英語で論文を発表できるようにアカデミックライティングやプレゼンテーションのテクニックを身につける。


C.自立するために(経済的に、精神的に)

2-6 複数の生計手段を持つこと。【3年以内】

1.ウェブショップのオーナー
2.セミナー講師
3.共同事業の推進プロジューサー


D.裸足の研究者(=意に沿わない研究をしない)であるために

2-7 経済的に自立していること (2-6がベース)

2-8 権威や権力に対しておもねることなく一定の距離を保つこと 【普段】

・誰からもなにものからも常に学ぶ気持ちを持ち、自分の間違いについてはあやまり改める勇気を持つこと。

・先入観や思い込みで人を判断せずに、誰に対しても分け隔てなく付き合うこと。

・義理人情は大切。しかし金の貸し借りは絶対にしない。※貸したお金は戻ってこないものと思うこと。

以上は、大目標を中心とした3×3の9つの升目(グリッド)に入れることができます。

そして、それぞれの項目(2-1~2-8)を実現するために、それぞれの項目をさらに9つの升目にいれて、より深く具体的な達成手段を検討し、行動計画に落とし込んでいきます。

ではでは^^?

博士論文までのロードマップ 2015年6月24日現在

みなさん、こんばんわ!

今、大学院進学のための研究室訪問を再開したのですが、先生にアポをとるのに自己紹介と研究計画を事前にお伝えしないといけません。その作業の中で、研究計画を見直す機会がありましたので、編集の上、下記に転載しておきます。
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○○先生


お世話になります。岡崎市在住の柴田英知と申します。

今まで、1992年から2008年まで、開発コンサルタント会社で、主に政府開発援助による海外の農業インフラ整備の仕事に携わってまいりました。私自身は、大阪外国語大学のアラビア語の出身で、理系のエンジニアの人たちと一緒に、主に社会開発の分野で業務をしてきたのですが、家庭の事情もあり、2008年に、2004年3月から2008年6月までのフィリピンのマニラ事務所駐在の任が解けたのを機に、地元の愛知県にもどってきました。

愛知県では、ボート用品のウェブショップの営業企画(5年間)や、NGOの研修スタッフ(公益財団法人アジア保健研修所)で1年2ヶ月などの仕事をしてまいりましたが、今年の春に契約が切れたのを機に独立して事業を行うとともに、大学院の進学を検討しております。

もともとは東西交流史で中世地中海のシチリア島の歴史をやろうと思っていたのですが、大学卒業時に大学院進学ができなかったため、開発援助の実務を経験しての再度の研究者への挑戦となりました。

今時点の問題意識を後述しますが、自分の事業を抱えての院生となりますので、物理的な時間等についてもいろいろ制約条件もあり、修士の2年はともかく博士論文に至るまでにはかなりの長期戦になることを覚悟しております。

以下が研究課題です。

■研究課題の一覧(2015年6月24日現在)

■研究領域: 開発人類学、異文化コミュニケーション

●大テーマ: イノベーション普及論 (エベレット・ロジャースの研究を踏まえて)

1)地域の重層性(自然・社会・文化・歴史・人種/民族など人間にかかる全てにかかる領域)と、2)異文化接触のメカニズム(接合・コンフリクトなど)を歴史的、地域的に分析・分類して、3)事実に基づいた地域共生/共存のあり方を明らかにする。

※これが、私が生涯をかけて終始、一貫して追求していきたいテーマです。

●中テーマ: フィリピンミンダナオの民族文化と開発(仮題)

東南アジア島嶼部(具体的には)フィリピンのミンダナオにおける地域の重層性を明らかにした上での、開発(援助)の諸相について報告を行なう。地域は中部ミンダナオ地域で、年代は1800年代より2000年以降まで。具体的なプロジェクトとして、日本の円借款で実施されたマリトゥボク・マリダガオ灌漑事業(リグワサンマーシュ北部。ピキットとコタバトの間にあります)を取り上げ、その開発計画の前史から、その進捗過程と、周りの地域や他の開発プロジェクトへの波及効果についても明らかにする。

■期限: 2021年3月

※博士論文としてまとめることを考えています。修士課程を除いて、少なくとも3年はかかるのではないでしょうか。修士課程では、別途、記載する小テーマにそって基本的なところをまとめていきます。それが、博士論文の前半の3分の1くらいの内容になる(する)つもりです。

特にミンダナオについての資料は、日本の研究者については、それなりに目配りをしているつもりですが、フィリピンでしか手に入らない文献資料や、現地の踏査、現地調査(インタビューなどを含む)のため、フィリピンには、少なくとも3~5回は、足を運ばないといけないでしょう。それを考えると、年に2回、フィリピンに通えたとしても最低3年かかります。当然、修士課程の時点から、前倒しで現地調査をしていく必要があります。

●小テーマ:

修士論文:フィリピンにおけるコミュニティ認識と外部者の役割(ミンダナオ開発における当事者の意識と開発推進者(トラベリング・エンジニア※開発NGOスタッフを含む)との交流を中心に) (仮題)

※調査方法の詳細については、研究計画書にまとめる予定です。

その修士論文を書く前提の基本理論の整理として、修士論文とは別に次の論考を発表することを考えています。

その1:「イノベーション普及論」の開発学研究における今日的な意味とその課題(仮題)

・E. ロジャーズの「イノベーション普及論」の、特に「普及研究の歴史(原著第5版の第2章)」及び「普及研究の貢献と批判(同上 第3章)」は、三藤利雄の和訳(2007)では「普及論の研究者としては読んでおくべきものであろうが、その他の分野の研究者あるいは実務家にとってはそれほどの必要性はない」との判断で訳出されていない。

その未訳部分をレビューすることにより、1)ロジャーズが第5版を執筆した2003年までの研究の流れを概観し、その問題意識を踏まえつつ、2)日本における「イノベーション普及論」研究の動向(2003年以降の動きも含む)を学問分野を問わず概観する。その上で、3)日本の開発学研究における「イノベーション普及論」の重要性と課題を明らかにする。

■調査方法: 日本語の書籍を中心とした文献調査

■期限: 2015年8月末 → 国際開発学会全国大会(例年10月末頃)で発表する。

その2:総合的地域研究と地域開発の接点~地域の重層性認識における日本のアカデミックな研究と実践の振り返り~(仮題)

・私が大学生時代に垣間みた「イスラームの都市性」(1988~1990)研究以来、日本の学界を挙げて文部科学省の予算で世界の各地域を対象とした学際的な総合的地域研究が行なわれてきたが、果たして開発援助の現場に、その日本の研究者の膨大な知見が反映され、または生かされてきたのか?さらにいえば、学界と開発援助業界の間でイントラクティブなやり取りが果たしてあったのであろうか。この10年ほどはその教育機関を修了して業界へ入ってくるものが多いが、基本的に現場の人間と学界の人間との交流は「個人的なつながり」でしかあり得なかったのはないか。

(アジア経済研究所の佐藤寛(前国際開発学会会長)が中心になってすすめた「開発援助と人類学(勉強会)」(1994年2月~2008年4月)には、2000年以降、数回参加している程度ではありますが、この勉強会の重要性は十分に認識しております。)

そのような問題意識を元に、1)世界の主に開発途上国といわれる地域を対象とした大型の総合地域研究のリストアップと、2)実際に研究会を指導したリーダー達の回想記なども引用しつつ、3)それらの日本の総合的な地域研究が示した地域の重層性のモデルのいくつかを提示する。

■調査方法: 公刊資料等の文献調査/研究者へのインタヴュー

■期限: 2016年8月末 → 国際開発学会全国大会(例年10月末頃)で発表する。

以 上

『われわれの物語を創るために 開発民俗学研究序説』

みなさん、こんにちは。

こちらの冊子、好評につき、2018年1月29日に5回目の増刷をおこないました。

第二版四刷、70部ということで印刷したのですが、その後のセミナーイベントなどで関心のありそうな方に贈呈したところ、残りが10部弱となってしまいました。

実際に手に取ってみたい方は、謹呈いたしますので、柴田まで直接メッセージをください。よろしくお願いいたします。

こちらに表紙と目次をアップしておきます。

20131130


P5

下記に、まえがきを転載いたします。なお、詳しい内容や入手方法につきましては、柴田までメールでお気軽にお問い合わせください。
柴田英知メールアドレス: bxf00517@nifty.com
では、よろしくご高覧ください。
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ひととひとをつなぐことによりモノと情報が流れる
-まえがきにかえて-

知は力なり。そしてそれは開かれたものでなくてはならない。(柴田英知 1991)

ただし、その裏書として、

「「他人の気持ちがよくわかる人」は誉め言葉だが、わかった気持ちを弄ぶことができるのもそういう人。」(現代会社の基礎知識 中川いさみ『大人袋③』小学館 1998 159頁)

 本著は、わたくし柴田英知の『アラブ・イスラーム学習ガイド 資料検索の初歩の初歩』 シーシャの会(1991)に続く2冊目の著作となる。1970年生まれ、新人類といわれた団塊ジュニアの世代である私が1992年3月に大阪外国語大学(現大阪大学)外国語学部アラビア・アフリカ語学科アラビア語専攻を卒業し、株式会社三祐コンサルタンツという農業・水資源・地域開発の専門民間開発コンサルタント会社で、東京をベースに12年間、2004年3月より2008年6月までフィリピンのマニラ駐在員として政府開発援助(ODA)の現場で、歩きながら考えた‘世界’と‘開発’についてのささやかな論考である。

 ようやく仕事に慣れ始めた30歳前後から自分(達)のやっていることについての疑問や迷いが生じるなか、ひょんなきっかけからホームページを開設し(2000年3月18日)、「歩きながら考える」というエッセイと並行して「開発学への途(のちに開発民俗学に変更)」という連載をホームページ上で展開することとした。

 また同時に、会社の名刺とは別に、「歩く仲間」の名刺をもって、武者修行のためNGOや学会のセミナーや勉強会に他流試合にのぞみ、若手会という同世代の開発援助関係者(開発コンサルタント、政府関係者、NGOスタッフ、大学(院)生)などのインフォーマルなネットワークの世話人などをさせていただいた。

 この東京での経験は、マニラに駐在した際に、邦人駐在員のODA関係者とNGO関係者、留学生や在フィリピン研究者による「フィリピンで開発を考える勉強会」の発足にも活かすことができたと思う。

 私は、学問的には、アラビア史の前嶋信次先生、民俗学者の宮本常一先生、イスラーム史、インド洋交易史の家島彦一先生の研究スタイルと、その合わせ鏡として、裸足の研究者鶴見良行氏とルポライターの鎌田慧氏の現代を見る眼から多くを学んできた。(注1)

 今回は、なぜ私が、「開発民俗学」というものを考えざるを得なかったのかについて、いささか個人の内面の吐露的な‘主観的’な論考を中心に取り上げた。しかしながらこの主観的なるものも、世界中の多くの先達や仲間との対話の中から生まれたもので、「歩く仲間」と一緒に議論するなかで、みなで創ってきたものであるともいえる。

 さて、ここで簡単に「開発民俗学」の志を述べたい。もとよりこのような学問分野は、寡聞のかぎりでは、現在、日本には存在しないと思われる。(石川鉄也氏が、『山を忘れた日本人 山から始まる文化の衰退 彩流社 2010 にて「開発の民俗学」を提唱されているが異なるものと考える。)

本文にも収録されているが、私の文章を引用したい。

「ところで、学問として開発人類学というものがある。この人類学にはいろいろな分類があるのだが、その別称として‘民族’学という言い方がある。この民族学とは、外部世界の見聞を自分の世界にもってかえって、同国人の気づきを促すという効用をもっている。今までの歴史上では、これは先進国の研究者が、未開な地域を訪れて、そこで収集した経験(事物も含む)を自分および自国民のために役立てるというケースが多かったのだが、私は、逆に、外部者として私たちが介入することにより、現地に住んでいる人たちの気づきをうながし自分たち自身のことを自分で研究してよりよい世界を自分たちで創造していける、そんな、開発‘民俗’学というものがあってもよいのではないかと考えるようになった。

 この日本語に特有の「民族学」と「民俗学」という2つのミンゾク学は、実に示唆に富むと思う。この日本語にいう「民俗学」は、柳田国男にいう、いわば日本文化の元の形(基層文化)を探るという側面があるのだが、それだけではなく、宮本氏のいう、実際に生きている人たちの生きる糧となるような学問のあり方、自分の足元を知ることにより、日々の生活をよりよいものにつくり変えていくという‘実践の民俗学’という側面もあると思う。

 つまり外部者として、(途上)国に入ることにより、現地の人たち自身の郷土への関心を呼び覚まし、彼らが‘民俗学’を自分の地で実践することにより、内部から社会を変えていくきっかけをつくる。この民俗学の主体は、当然、彼ら自身である。そんな開発‘民俗’学を創っていきたい。かってな造語だが、そのようなものがあってもよいのではと、最近考えるようになった。」 柴田英知 「開発‘民俗’学の構想」(2003年11月3日)

「「つまり、書くとは「過去の事件や現代の人間を描いたりしながらも、けっしてそれで完結するものでなく、現代をテコにしながら、未来をこじあけるものでなければならない」し、そこには「批判と変革の志」がなければならない、ということ。」(鎌田慧の取材姿勢について、吉岡忍が要約したもの。吉岡忍「解説」 鎌田慧『ルポルタージュを書く』 岩波同時代ライブラリー 1992 221頁

これを私なりにもじると「開発民俗学とは、現代の問題から出発するにせよ、過去の歴史に謙虚に学び、そこに住む人たちと未来を創造していくものである。」って言えたらかっこいいなあ^^!」 柴田英知 「封建領主は、単なる‘悪の親玉’なのか!」(2006年12月1日)

「ひるがえって、‘開発民俗学’が求めるものは何か。それぞれが生きる場としての地域に戻って(立って)、それぞれが最もふさわしいものを自らが選び取っていく、そのためには自分の足場を考える地場の‘民俗(学)者’が育たなければならないし、彼らが地域のリーダーとしてそれぞれの地域を変えていく。またそれらの‘民俗(学)者’をつなぐべき異人としてのカタリストも必要であろう。これらの人々をNGOのシャプラニールでは、前者を「土の人」、後者を「風の人」と読んでいる。見事なネーミングだと思う。

 昨今、社会開発や人間開発が叫ばれているが、その足元にあること、そもそも何のための‘開発’なのかを、常に振り返ることが必要であることを改めてここで強調させていただく。また同時に、‘開発’を考えることは、‘途上国’のことを考えるのではなく、‘先進国’のありかた自体、もっといえば、われわれ自身の生き方で問うものであることを繰り返したい。」 柴田英知 「開発の究極目標?制度設計」 (2007年7月22日)

 今、私は、2008年にフィリピン駐在から帰国したのを機に、家庭の事情で開発コンサルタントの職を辞し、親元である愛知県に戻ってきた。転職してマリングッズの専門商社で5年間、通信販売の企画営業としてウェブショップの運営というマーケティングの現場体験を積むと同時に、地元の岡崎市のまちづくりや市民活動に関わって、あらためて‘開発民俗学’の裾野を広げることができたと思う。

 この1992年~2008年の政府開発援助の中での開発コンサルタント経験と、2008年~2013年の民間営利企業でのマーケティング経験は、政策レベルから小売まで、風上から風下までの一貫した開発戦略の実践を図らずも現場で学ばせていただいたともいえよう。

そうした国内外の地域のためにがんばる多くの人たちとの交流は、改めて、「人と人をつなぐことにより、モノと情報が流れる」ということの重要性を裏付けてくれた。

 今、21年間の社会人経験を経て、開発民俗学を創るために、あらためて大学院進学のチャンスを与えてくれた三つの祐について感謝したい。三つの祐(たすけ)とは、天の助け、地の助け、人の助けをいう。海外業務には危険な地域での仕事もあったが、幸い事故や事件に巻き込まれずに仕事を全うできたこと。私を影に日向に助け支えてくれた人々への感謝は言葉に表しきれないが、それでも機をみるには、天の配慮ともいうべき導きがあった。

 ちなみに三祐とは、戦後復興の大きな礎となった愛知県の知多半島部とその先の篠島へと水を運ぶ愛知用水を創った男たちが興した農業土木の専門コンサルタンツである三祐コンサルタンツの社名そのものである。篤農家、久野庄太郎翁を技術面で支えた農業土木技師浜島辰雄先生は、新入社員研修で愛知用水をバスで回りながら、続けてこういう「なぜコンサルタンツか、それは、専門家であるコンサルタントが助け合って協働するから複数形なのだ」と。このとおり、本書には「戦後日本を代表する初の大規模総合開発プロジェクト“愛知用水事業”」に携わったエンジニアたちの熱き心の一端が垣間見られるかもしれない。この素晴らしい先輩、上司、同僚の仲間の全てには感謝しきれないほどの恩恵をいただいていたことに関して、なんらかの恩返しができればと常に考えている。(注2)

 なお、本書は、2013年2月23日に最後のフィールドワークに旅立たれた片倉もとこ先生にささげたい。1990年5月の関西大学で開かれた日本中東学会 第6会 年次大会で初めてお会いしたのをきっかけに、研究会や講演セミナーなどいろいろなところで先生の謦咳にふれさせていただき著書やお話から多くのヒントをいただいた。特に「平の人」と「ホーリスティック」アプローチに関して多大な影響を受けている。この開発民俗学の構想に関して一番、最初に相談いたしたく、また指導をいただけたらとずっと考えていたのだが、それもかなわぬ夢となってしまった。

 まだまだ開発民俗学への途は緒についたばかりである。今まで私を助け叱咤激励そして鞭撻していただいた世界中の多くの仲間に感謝すると共に、何らかの体をなしたときに改めて喜びを分かちあえる日が遠くない将来にくることを願ってやまない。

2013年11月30日

柴田 英知


注1 Giant Steps!(巨人たちの足跡) 2001年2月25日現在

 しばやんが敬愛する『歩く』仲間の大先輩方のコーナーをここに設けました。しばやんが今まで生きてきて本物だと思える仕事をされてきた大先輩に、宮本常一先生、前嶋信次先生そして家島彦一先生がまず挙げられます。

 彼らの代表的な著作や翻訳書を通じて彼らの思索の足跡をたどりつつ、そして、その合わせ鏡として現在の社会を見る眼ということで鶴見良行先生と鎌田慧先生の著作やその仕事を、「歩く仲間」に広く紹介させていただきたいと思います。

 当然、これらの先達にめぐり合うまで多くの先生や、諸先輩、仲間の導きがありました。全ての、『歩く仲間』に深く感謝しております。

宮本 常一(民俗学者) 1907年~1981年
主な業績;
常民の発見、及び民俗学の基本的な課題の探求
『忘れられた日本人』
『宮本常一著作集』

前嶋 信次(アラビア史)1903年~1983年
主な業績;
イスラーム・アラビア史の啓蒙、及び『アラビアンナイト』の日本語初の原典訳

家島 彦一(イスラム史・東西交渉史)1939年~
主な業績;
インド洋交易史の解明、及びイブンバトゥータ『大旅行記』の原典全訳

鶴見 良行(裸足の研究者)1926年~1994年
主な業績;
辺境から中央を見ることによる東南アジア史の解明と海の民の再発見。
『バナナと日本人』、
『ナマコの眼』

鎌田 慧(ルポライター)1938年~
主な業績;
日本の高度成長の裏側を労働者や社会的弱者の立場で告発。
『自動車絶望工場』、
『ぼくが世の中に学んだこと』

Thanks a lot for your suggestions !

注2:括弧の部分は、高崎哲郎 『水の思想土の思想 世紀の大事業 愛知用水』 鹿島出版会 2010 の帯の言葉を引用した。愛知用水事業については、同著を参照されたい。

今後の研究計画の枠組み 【小テーマ その2】

2015年5月22日作成。 2015年5月23日現在。

小テーマ:

その2: 「地域の重層性(問題)」の開発学研究における今日的な意味とその課題(仮題)

(作成中)