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2009年11月22日 (日)

5年目の“歩く仲間”と1年後のフィリピン(人として・・・ “変わってくこと”“変わらずにいること”) (再掲)

歩く仲間(HP)の過去記事ですが、「いいひと。」の話題のついでに、こちらにも転載しておきます。

オリジナル初出 2005年3月23日http://homepage1.nifty.com/arukunakama/n00025.htm

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1.思えば遠くへ来たものだ

2000年3月18日に、このホームページを開設してちょうど5周年。

今日(3月23日)はいみじくもフィリピンのマニラに赴任して丸一年になる。

「思えば遠くへ来たものだ」 中原中也の「頑是無い歌」という詩の一節であるが、私はむしろ武田鉄矢の海援隊の歌として知っている。思えばY2Kとかミレニアムとか鳴り物入りで始まった2000年から既に5年経ち、今、当然のごとくマニラでパソコンに向かっている。

そうだ、私がエジプト出張中におきた阪神・淡路大震災(1995年)も1月17日に10周年を迎えた。同じく3月20日は地下鉄オウムサリン事件から丸10年を迎える。今年は、戦後60周年でもある。

思えば1999年11月21日、20世紀を目前にして、「今、僕たちはどこにいて、どこへ行こうとしているのか」を確かめるために、誰に読んでもらうともなく、このエッセイを書き始めたのであった。しかしながら、‘どこ’にいて‘どこ’へ行こうとしているのかは、多分、いつになってもわからないであろう。

つまり、一瞬一瞬の積み重ねが生きているということであり、‘どこ’かが特定できるということは、動かないものと化してしまったときのみ、死んでしまったとき、つまり自分が自分で無くなったときに他者より相対的に位置付けるものでしかないということが、なんとなくわかってきた気がする。この人間を取り巻く世界もしかり。自分という個人の意思と全く関係なく、地球そのものが意思をもっているかのごとく、一瞬一瞬でその姿を変えていく。

今回、 “変わってくこと”“変わらずにいること”をテーマに、考察を進めてみたい。

2.“変わってくこと”“変わらずにいること”

 これは、槙原敬之の「遠く遠く」という歌の一節だ。大学で田舎を出て東京にきた主人公が、神宮「外苑」の桜をみて、ふるさとの友達を思い出す。「同窓会の案内状」の欠席に丸をつけた。

  「遠く遠く離れた街で

元気に暮らせているんだ

   大事なのは

  “変わってくこと”

  “変わらずにいること”」

 わたくしごとになるが、数日後の4月1日で35歳となる。高校時代までの18年間、大学で大阪にでて、就職で東京にでて、昨年からフィリピンへ、田舎を離れてから17年間。気が付かないうちに、田舎で過ごした時間を、それ以外で暮らした時間が上回ろうとしている。

万物は流転するのであり、町並みも人並も変わっていく。しかし本当にそうなのであろうか。そして、この歩みは果たして望ましいものであったのであろうか。どうも変わっていること自体を認めなくてはならないと思いつつも、変わらずにいてほしいと、心の奥底で願っている。そんな経験はないだろうか。

3.“あれから10年も”「10 years」(渡辺美里 1988)

~“あれからどれくらい僕らは歩いてこれたのかな”「夜空ノムコウ」(スマップ 1997)

非常に古い話で恐縮だが、私が大学生1年生のころ、渡辺美里の『ribbon』というアルバムが第ブレイクした。たとえば『恋したっていいじゃない』とか『Believe』、『シャララ』、『悲しいね』とかヒット曲も目白押しであったが、アルバムとして非常によく練られており、今でも、そのコンセプトアルバムとしての完成度が高いといえる。考えれば、渡辺美里の歌詞もよいか小室哲哉とか木根尚登とかTM Networkの面々や大江千里とかずいぶん豪華な作曲陣がサポートしたものである。

さてその中に、美里作曲、大江千里作曲の『10 years』という曲がある。

「空一面に広がった 夕焼け見てたら/もう二度と逢えないよな 気持ちになった」幼年時の幼友達(異性であろうか)の「二人ならんで笑った写真」を思い出しつつ、「あのころは何にでもなれる気がした」が「気がつけば 母の背を追いこしていた」。

「あれから10年も/この先10年も/行きづまり うずくまり かけずりまわり/この街に この朝に この掌に/大切なものは何か/今もみつけられないよ」

このアルバムが販売されたのが1988年の春かであろうか。とにかく1988年の冬にもはやっていた。1988年の夏に、ヨット部の合宿所でたまたま出航しなかったときに、船を整備していたときにも艇庫の中で、大学の近くのミスタードーナツ小野原店でバイトをしていた頃、夜中に店舗の掃除をしていたときにも、ラジカセでこのアルバムがガンガンかかっていたことを思いだす。

余談であるが、その後(1997年頃か)、スマップの『夜空ノムコウ』がはやったとき、ふと、この『10 years』とのシンクロ性を感ぜずにはいられなかった。変な例えだが、返歌というのであろうか。10年を隔てて、美里の歌に、回答しているような錯覚に陥った。

「あれから僕達は なにかを信じてこれたかな」の「あれ」というのが、どうも10年ぐらい前の思い出ではなかったのか。「夜空ノムコウには 明日が待っている」というのも、『10 years』の「夕焼け」に対応しているような気がしている。

さて、この『ribbon』に、同じく美里作詞・作曲で『Tokyo Calling』という曲もある。

「・・・自然だけが息をしてた土手の上にも/容赦のないセメントが流し込まれる」、「今も科学の進歩は限りなくて続けられて/失くしたくないものが 現在のため壊されていく」「山が削られて/川が汚されて/森もいつかは 切られて荒れ果ててゆくの」

とても15年以上も前の歌詞だと思えるであろうか。いい意味でなくて、「全く今と状況が変わっていない」という意味で。

実際そうだと思うのだが、ちょうど私より10年ぐらい年上の渡辺美里の世代は、まさに昭和35年代というか日本でガンガン「高度経済成長」に幼年時を過ごしている。その元風景が、アポロの月着陸であったり、東京オリンピックであったり、新幹線の開通であったり、1970年の大阪万博であったり、しかし同時にその科学や文明の正の面、ひかりの面だけを、この日本は経験したわけではなかった。カネミ油症、水俣病、四日市ゼンソク、公害列島とも言われた時代もまたこの60年代ではなかったのか。

しかしまあ、日本という国も第二次世界大戦から“わずか60年”で、戦後の焦土から復興し、先進国に復帰して、今では老人大国というかある面、先進国中でも急激な高齢化社会になってしまって、非常に長足の進歩を遂げたというか、人類の歴史の中でも、特に「開発」については、とんでもないトップランナーだったのですね。

4.「変わらずにいること」=「変わらないこと」、「変われないこと」?

確かに見た目は変わった。しかし、その心というか本質は変わっていないのではなかろうか。これは、物質にもあてはまり、人間にもあてはまる。彼や彼女は、服や立ち居振舞いも変わった(貧乏から金持ちになったのかな)かもしれないが、本質は変わっていないではないか。逆にそれが身近な人であればあるほど、変わらずにいてほしいものである。

つまり、いい方向?に変わることを望ましいと思いつつも、変わらずにいてほしいという願望が誰もがもっているのではないか。

この5年、開発の現場も大きく様変わりした。しかし、それは見かけだけのことではなかったのか。よく考えると訳のわからないカタカナ英語に振り回されてきただけなのではないか。

いや多分、本質的な転換があったのだろう。それは、「援助する側」が、“まず変わらなければならないこと”を悟ったことであろう。それはそれでかなりの進歩だと思う。実はあたりまえのことなのであるが…。

しかし、その先に、「援助される側」も“変わらなければならない”ということには、まだまだというか、今、逆に躊躇を感じるようになった。

そもそも、援助される側の人たちは‘変わる’必要があるのであろうか。彼らも‘変わらなければならない’のであろうか。彼らを開発や援助の旗の下に、‘変える’必要があるのであろうか。

ここで、「貧困」という言葉を、改めて取り上げてみたい。

5.貧しいことは‘いけないこと’なのか

(「貧しき友」『君たちはどう生きるか』吉野源三郎 1937(岩波文庫 1982)より)

 以前にも触れたが、『君たちはどう生きるか』という本の四章に「貧しき友」というエピソードがある。これは、主人公のコペル君(亡くなったお父さんが大きな銀行の重役だったという設定)が、同じ中学校の「油揚」などとからかわれている豆腐屋の浦川君の家を訪問したときのエピソードなのだが、その中で、東京の山手に住んでいるコペル君は、初めて踏み入れた貧しい街に住む浦川君を取り巻く環境に驚き、かつ考えさせられる。

 このコペル君の報告を聞いた「おじさんのNote」には「人間であるからには-貧乏ということについて-」以下のようなことが書かれている。

「・・・貧しい暮しをしている人というものは、たいてい、自分の貧乏なことに、引け目を感じながら生きているものなんだよ。 ・・・ もちろん、貧しいながらもちゃんと自分に誇りをもって生きている立派な人もいる」 「しかし、コペル君、たとえちゃんとした自尊心をもっている人でも、貧乏な暮しをしていれば、何かにつけて引け目を感じるというのは、免れがたい人情なんだ。・・・」

 厳密に言えば、「貧困」と「貧乏」「貧しい」という言葉の意味は違うかもしれない(日本語の中でも英語の中でも)が、あえてそれを無視して続けさせていただければ、今、開発の現場でやっている「貧困撲滅」とか「貧困削減」って一体、何なんだろうと思ってしまう。

 つまり、「貧困」自体は、先進国でもどの人間世界でも共通に抱えている問題であって、多分、人間がこの世に出現してから延々と続いているものなのではないのか。

 福祉の世界では、「絶対的貧困」と「相対的貧困」という言葉があるが、私にいわせてもらえば「貧困」とは、全て相対的なものである。つまり、もてるものともてないものがいるのはあたりまえのことではないか。欲張りな人間や、ずるい人間がいるのは古今東西、人間の摂理ではないのか。

 ミレニアム目標で、「貧困の削減」を高らかにうたっているが、2000年からわずか5年で、目標とした2015年での達成が不可能であることが誰の目にも明らかになってきた。

 私は、援助関係者の努力を茶化すわけでも他人事としていっているわけでもないが、「貧困撲滅」というより、「人間として尊厳をもって生きられる世界にする」これは、今、北の世界で話題になっている開発教育のテーマかもしれないが、お互いに尊敬をもって、差別や偏見をもたずに、物やお金をもっていることが幸せというか、開発具合(発展度?)の尺度であるような世の中を変えようではないかと、最近、つとに思う。

 「貧しき友」の中で、叔父さんが、どのような説明をしていくかについては、非常に興味深いことだと思うし、実際に素晴らしいことがかかれているので、続きはぜひ自分で読んで考えてみてほしい。この「自尊心」というのは非常に重要なキーワードだと思う。

6.人として

 つい最近、とある雑誌で以下のくだりを読んだとき、つい胸が詰まってしまった。

日本に出稼ぎに行った経験のあるフィリピン人女性らの座談会形式のインタヴュー記事「帰ってきたジャパユキさん」の中での、とある女性(アグネス)の発言。(注1)

「日本人って二種類いるのよね。ひとつは貧乏だとかバカだとかってフィリピン人を見下す日本人。もうひとつが貧乏だからかわいそうと思っている日本人。」

以下に、だから日本人はカモにしやすいというおしゃべりが続く。

日本人として恥ずかしいなどといえる高尚な自分でもなくて、理屈や頭ではいけないことと思っても、そう思っている日本人がいるのも無理はないなとなぜか納得してしまう。自分に微塵もそんな考えがないかというと、そうは100パーセント自信をもって言い切れるわけでもない。

 この文章を読んだとき、なにか非常に情けない気持ちになった。いいとか悪いとか以前に、そうだよなと思ってしまう悲しさ。フィリピン人女性が、日本人の男性(そもそもフィリピンパブにくる人に対するコメントであろうが)を、上記の二種類でしかないと言いきってしまう現実(リアリティー)。もっと、他の日本人もいるだろうと突っ込みたくなるが、その私の声は弱々しい。

 すでにお気づきであろうが、実は、上の二つのことは、全く同じことを言っている。1996年12月の発行だから、約10年も前の記事ではあるが、果たして私達、日本人は、どれだけ変わったのであろう。やっぱり全然、変わっていないのではなかろうか。

 武田鉄矢の「海援隊」に「人として」という歌がある。『3年B組金八先生』の第1シリーズのエンディングテーマであったが、ドラマを知らずとも、どこかできいたこともあるだろう。

「遠くまで見える道で 君の手を握りしめた/・・・思いのままに生きられず・・・/私は悲しみ繰り返す そうだ人なんだ/

人として人と出会い 人として人に迷い

人として人に傷つき 人として人と別れて

それでも人しか 愛せない」

同じく、武田鉄矢の歌で、以下の歌詞がある。

  「人の言葉に傷つけられても

   どこにも逃げまい

   破けた心を繕う糸は

   やっぱり人の言葉」

もっと、自分を、人を信じて、‘人として’生きていければよいのではないのであろうか。確かに地球環境問題とか、自然環境も大事であろうが、‘人しか愛せない’ということに、もっと自分が‘人間’であることに素直になっていいのではないか。

‘人として’・・・奢ることなく卑屈になることもなく、互いの尊厳(Dignity)を大切に。

たまたま、この地球という星の同時代に生まれ合わせた‘仲間’じゃないか。

 間違っているかもしれないけど。

聖週間(Holy week)の祝日休暇の初日、駐在して丸1年目のマニラにて。

注:

1.「帰ってきたジャパユキさん」 フィリピンのはまり方編集部編 『フィリピンのはまり方(創刊号)ニノイ・アキノ国際空港に降り立ったハマちゃん-「フィリピン通」日本一への旅立ち-』 1996

ずいぶん思わせぶりな副タイトルのフィリピンマニラ発行の雑誌。たまたま会社の事務所で見つけた。きわもの雑誌かと思いつつ、非常にまじめな内容で面白かった。

(この項 了)

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