【005】22年前に描いた夢:プロトタイプとしての柴田スクール(1998年5月2日)
夢は必ず実現する。好きなことや、やりたいことが自分や外部条件など様々な理由でやれなくて困ったことがないって、まじめにいったらおこらえますか。
塾長の柴田です。
この国際共創塾、実は1998年5月2日に、「柴田スクール開催について」というタイトルで、ノート数ページに、このように書きつけていました。
「A 仮称: 開発と人間博物館(和文)、Development and Human Museum (英文)
B: 目標(理念):
地球市民の一員として、諸先輩の肩をかりつつ21世紀を生きるのにふさわしい理念をつくるために下記の点に留意しつつ日々研鑽を重ねていく。
1.よりよい社会を創造するのにあたる(ママ)有為の人材を育て、かつ共に学び教えあいながら個々人の資質を高め、世界平和のための社会的活動を行なう。
2.”フィールドワーク”をベースに、学問の枠を超えた実学の伝達をめざす。(社会に対して開いた存在をめざす。)
3.地域研究と開発学の橋渡しを図る。近代資本主義と国民国家主義を超えた21世紀のパラダイムを創出する。
4.寛容(トレランス)を理念とし、すべての者にとって個々人を否定されない聖域(サンクチュアリ)たる道場を発現させる。
5.全ての人に開かれた知の世界を現出させるための方策を講じる。(研究成果の公開)」
この後に、C 成果(アウトプット)、D.対象とする学問分野、E.研究方法など、細かく書いてありました。(実は、自分も書いたことすら忘れていた時期が多々ありました。
そこで、おもしろいのが、F.開始時期の項目で、「満50歳前に博士号取得を目指すこととし、実務者としての義務を果たしつつ研究者・教育者としての道を模索する」とあることです。
結果として、50歳前に博士号は取れませんでしたが、修士号は49歳でいただくことができました。
G.前提条件で想定していた修士号は、「MA Master of Development Antholopology, Development Sociology」としていましたが、実際は、「MA:Master of Humanity and Social Science」でしたが、ほぼ狙い通りです。
まちがっても、Master of Economicis(経済学) でもLow(法学)でもSociology(社会学)ではありません。
確かに22年もかかりましたが、結果として、「柴田スクール」=「国際共創塾」という夢を、またまた実現してしまいました。
実は、このノートには、65歳で退職して地元の愛知に戻って「66歳:郷土で大学を開く」というところまで記載があります。1998年の時点では、65歳まで東京ベースで開発コンサルタント会社の社員を続ける予定だったのです。
しかし、38歳で愛知に戻ってと大きな「まさか」はありましたが、結果として、さすがに大学まではいかないまでも15年も早く「柴田スクール」を具現化することができました。46歳から大学院に入ったのも、そう、この「柴田スクール」という夢の実現の「前提条件」になっていたからがんばれたのです。自分では、まったく意識していませんでしたが。
むろん、いまからこれからです。
ただ、はるかに未来に思える先々まで(このときはとりあえず80歳まで)目標となるベンチマークを年表にかいておく。
そして実現したい中身についても書き出しておくことにより、このメモがどこかに埋もれてしまっていたとしても(実は、手書きのメモを一時紛失してしまい、それが見つかった2004年6月24日にパソコンでタイプしました)、どこかで自分の潜在意識の中にのこっていて結果の帳尻あわせをしようとする。
50才となった今、改めて、22年前のメモを見直してみて、想いや願いを、自分の外部に出して「見える化」することの重要性を改めて実感しました。
50才の誕生日の3日後に 柴田英知 2020年4月3日
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