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2020年7月

2020年7月 1日 (水)

【「想像力」と「わからないこと」についての考察】

つい先日、国際協力界隈の若い仲間からあるオンライン勉強会で「想像力の大切さ」について問題提起された。(わたしは「仲間」というときに特に年齢にこだわるつもりはないが、話の便宜上、ご容赦ねがいたい)

おそらく社会学のミルズの「(社会学的)想像力」という言葉や、いわゆる一般的な意味での「想像力」が、国際協力に携わる者にとって、とても大切だと思っているという主旨の発言(プレゼンテーション)であったが、その後の質疑応答というか雑談会で、三つのことを指摘させていただいた。

1.想像力が大切なことは認めるが、過度にそれを重要視してはいけない。

2.自分や開発コンサルタントの仲間の経験から言っても、自分の経験や想像力をこえる「何か新しいこと(Something new)」が常にある。

3.自分が「想像力」をつけることによって、人の見落としが気になったり、「想像力がない」人に対して厳しくなってしまう。

その延長として、他者理解のための「想像力」が、自分の思い込みやステレオタイプを強めてしまう可能性があるといった主旨のことを発言させていただいた。

「想像力」が国際協力や福祉や介護などいわゆるソーシャルワークにあたって重要なことは間違いなく、特に臨床あるいは現場をもつ実務者にとって必要不可欠なものであることは言うまでもない。

しかし、問題はどこまで当事者のことがわかるか、想像できるのかであろう。特に当事者と十分にコミュニケーションが取れない場合は、それが極めて難しいことは容易に想像できるであろう。先の勉強会で、次のことも発言した。

これはまったくわたしの失敗というか懺悔の話である。障がいをもった子どもを持つ母親が当事者運動に取り組み、その過程で研究をまとめようとするケースが実はままある。少なくともわたしはそのような当事者のそばで研究をしている人を複数知っている。

あるとき、そのような立場の方に、研究上の興味関心から、「わたし(柴田)が見立てるところでは、いわゆる当事者運動では、障がい者など本人が声をあげられない場合、その近くにいる人が「当事者」運動をおこなっていることがとても多い。しかしこれは、「1.5当事者」運動なのではないか。特に、コミュニケーションをとるのが難しい当事者の場合、まわりの人は本当に当事者の考えや気持ちがわかるのであろうか(あるいは代弁できるのだろうか)」と問うてしまった。

本当の「当事者」の気持ちや考えをおもんばかった人たち、わたしがいうところの「1.5当事者」の「想像力」による社会への問題提起や社会変革運動が、現実の世界を変えてきたことは間違いない。ところが、どこまで本当の「当事者」の気持ちや考えをわかっているのだろうか。もしかしたら、「1.5当事者」もわかったつもりでいるだけなのではないかという、きわめて残酷で冷淡な問いであった。

その方は、「この子が本当にどう思っているかはわからない。でもわかった気がすることがある」とおっしゃった。自分は、慌てて自分のぶしつけを詫びるとともに、その方の「研究者」としての良心を感じた。そして、わかっていない(だろう)ことを自覚しつつも、わかろうとしている姿に感動すら覚えた。

話を戻すと、わたしは、結局、わかろうとしてもわからないことはいくらでもあるし、わかり得ないことに目をつぶって自分が「わかったつもり」になっていることの恐ろしさに立ち戻ったのである。そうだ、なんでもわかると思うほうが傲慢であり、わからないことはわからない。だから、いくら自分の「想像力」を高めようと努力しても、この例のように、おそらくいろいろな意味での限界がある。

むろん、このことは、「想像力」の重要性を否定するものではない。しかし過度の期待はいけないと思うし、いくら自分の「想像力」を高めたとしてもわからないことは依然として残るという、きわめて当たり前のことの確認である。

自分自身の開発コンサルタント経験をふりかえると、いつも自分の「想像力」をこえた新しいことに接してきた。実際、開発コンサルタント仲間の間では、「(わたしはずいぶんいろいろな経験をしてきたけど)、どこそこの現場で、こんな(想像もしていなかった)新しいことを体験した」というのが、一番に盛り上がる鉄板の楽しい話題なのである。

なので、わたしは、ある時期から「想像力」を鍛えることに対して、過度の期待はもたないようにしている。それも大事だが、おそらくそれより大事なのは、現場で「おやっ」と感じること。その自分の違和感に対して、どん欲に「わかっているだろう」人に食らいつくこと。自分の「想像力」でもなく、わかっているだろう人の「想像力」でもなく、事実そのものから、われ彼が「みえていないこと」を科学的に把握すること。もしかしたら、その「おやっ」を感じること自体が「想像力」なのかも知れないが、具体的な裏付けをとることは調査業務の基本中の基本である。

結局、開発コンサルティングは、宗教ではなく科学である。「想像力」を軽視するわけでは決してないが、それらに過度に依存しないこと。感覚的に「困っているだろう」ではなく、実際に当事者が何を考えているのか、はたして「そもそも困っているのか」を、現場で当事者本人と一緒に具体的な事物を前にして考えるのがコンサルタントである。

あくまで上記は、わたしの個人的な見解である。しかし、わたしが一緒に働いてきた優れたコンサルタントたちは、「想像力」に過度に頼ることなく、また逆にどんなベテランでも、豊富な自分の「経験」に頼るのでもなく、たんたんと、そして粛々と、目の前の現実に向き合っていた。やっぱり、「医師、弁護士、コンサルタント」とは、結局、そんな人種なのであろうか。

この項了。

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