カテゴリー「■グローバル人材のマインドセット」の5件の記事

2020年5月11日 (月)

【グローバル人材のマインドセット⑤】その5「のりしろとボケ・ツッコミープラットフォームあるいは場をつくるということ」

いよいよマインドセット編、全5回の最終回となった。限られた紙面であるため、わたしが最も重要であると思うエッセンスしかのべない。

今回のお題は、自分の専門領域に対して、必ずのりしろをつくるべきであるということと、その専門領域あるいはあなた自身に対して、人から突っ込まれるスキあるいは余地を残しておこうという提案である。今までのべてきたように、開発コンサルタントや国際協力の分野で働くということは、高度な専門性を求められている。それは、もっともなことで、とある社会課題に対してあなたは何らかの解決策を与えてくれるスーパーマンまではいかないにせよ、特別な能力を持った人間であると外部からはみられてる。

プロフェッショナルであることについての定義にはいろいろあろうが、やはり金銭的な対価を受け取るのであれば、最低でもそれに見合ったモノなりサービスなりを提供しなければならない。欧米社会、もしかしたら開発途上国でも、「医師・弁護士・コンサルタント」と医師や弁護士と並び称される高度専門職であることは周知のことである。わたしは、「開発コンサルタントは世界で一番勉強している人たち」であると思っているが、自分自身もふくめ、これは間違いないと思う。

なぜならば、コンサルティングの対象課題は、全てオーダーメードで、特に国際協力の分野では、日本人が開発途上国の貧しい人に「教える」ケースばかりではない。むしろ、開発途上国でも上流階級(セレブレティ)の政治家や役人、彼ら彼女らは往々にして欧米で修士や博士号を取得している自分より遥かに金持ちで学歴もある人たちと政府開発援助の世界では対峙する。

国際開発というフィールドでは、これらの高学歴で能力の高い開発途上国のトップクラスの人たちに加えて、先進国の国際機関職員や開発コンサルタントたちと、ともにさまざまな社会課題に立ち向かわなければならない。つまり、開発コンサルタントは日本国内だけでの研鑽が必要なだけではなく、開発途上国の現場で、高学歴で能力の高い人たちと、当たり前のように英語やフランス語をつかって、「世界水準かつ最先端」の仕事をしなければならない。

想像ができないかもしれないが、例えばフィリピンの農地改革省では、2005年の時点で、外国援助局という日本をふくむ先進国や国際機関の援助を受け入れている部署では、合計で17個の外国援助の事業がおこなわれていた。ちにみに、2つは日本の円借款の事業である。この外国援助局は本庁とは別に独自のビルを持っていたが、この4階建てのビルには、17のプロジェクト事務所がはいっていたのである。具体的には、世界銀行、アジア開発銀行、USAID、EU、スペイン、イタリアなどなど、とにかく17のお雇い外人人コンサルタント部隊が軒を連ねていた。

つまり、この農地改革省のカウンターパート、すなわち外国人コンサルタントと共に働くフィリピン人の政府職員は、横並びで「外国人コンサルタント」のパフォーマンスを吟味できる立場にある。つまり、開発途上国の政府職員こそがクライアント=雇い主であり、開発コンサルタントは「雇われる立場」つまり「お雇い外国人」でしかない。ここでは「日本人である」という甘えは一切、許されないのだ。

ここで留意すべきは、その時点での自分の能力を知った上で、自分の立ち位置を把握することである。自分だけでは的確にそれを知ることができないにせよ、せめて自分の立ち位置を、誰もが注目していることは最低限でも知っておくべきであろう。特に大きな仕事であればあるほど、人はひとりでは何もできない。開発コンサルタントは、現場で調査業務や設計業務、さらに大手の開発コンサルタント会社は、大規模な建設工事の施工管理をおこなう。原則として、それぞれのプロジェクトで求められるメンバーは、ひとつの職種に対して「ひとり」である。

つまり、ひとりで、与えられた職務や担当(アサインメントという)を、あらかじめ決められた国内外の期間内におこなわなければならない。国内であれば、社内の応援が得られる場合もあるが、海外であれば、他のメンバーもそれぞれのアサインメントをもっているので、自分の業務範囲は、限られた時間内に「ひとり」で完成させなければならない。特に、日本政府のODAの仕事であれば現地作業の日本出発日と帰国日が決まっている。そのため、自分に与えられた仕事が期間内に終わらないから、ひとりだけ残って完成させた後に帰国するということは、絶対に許されない。

だからこそ、ひとりひとりの開発コンサルタントは、同じプロジェクトのチームリーダーやチームメンバーと互いに進捗を報告しあい、助け合いながら作業をすすめなければならないのである。ここに至って「のりしろ」の意味があなたにもお分かりであろう。つまり、専門家が、それぞれ自分に与えられたアサインメントをこなそうと必死になればなるほど、「自分の業務範囲」ばかりをやってしまい、専門家の業務範囲の間の「隙間」が必然的に生じてしまうのである。その「隙間」を埋めるのが「のりしろ」の役割である。

たとえば、政府開発援助(ODA)のスキームの中に開発調査といって、開発途上国に出向き、なんらかの事業の実施に先立ち、その必要性や便益などを調べる業務がある。大きいものでは、例えば水資源や農業分野の国家計画から、日本でいう複数の県にまたがる道路計画や流域の総合開発計画、灌漑計画、工場団地の建設、港湾や空港、都市部の交通計画など、小さなものでは地方都市の給水計画や村の井戸建設、農協の整備など、大規模なものから小規模なものまで、あらゆるセクターでさまざまな調査が実際の施設建設に先立っておこなわれている。

このように調査の規模にもよるが、大規模なものでは足掛け2,3年で、20人近くの開発コンサルタントの団員を投入することがある。もちろん、調査団が派遣されるのに先立ち、あらかじめ大まかな業務範囲が発注者、ODAの場合であれば、国際協力機構によって定められており、それに従って開発コンサルタントが作業をするのであるが、当然のことながら、事前にはわからないことが現地で勃発する。

つまり、現地調査を進める中で、あらたに考慮すべきことや調査すべきことが発覚し、想定していた開発コンサルタントの予算や人員では、当初目指していた成果が上がらないことがわかることがよくある。その場合は、開発コンサルタントは、「できない」ことを速やかに発注者に伝え、善後策を検討しなければならない。とはいえ、限られた人員でベストを尽くすのが開発コンサルタントが、開発援助のプロであるゆえんなので、チームリーダーは、今いるメンバーでできるたけのことをしようとする。

そこで、開発コンサルタントのおのおのが「自分の立ち位置や能力」を正確に把握しており、「隙間」ができないように、自分の業務範囲のまわりに「のりしろ」を作っておく、つまり自分以外の専門家との「隙間」を積極的に埋めることができるように準備をしておかなければならない。この「のりしろ」を作るために必要なことが、自分の専門分野以外の「隣接分野」の勉強である。

チームが団結して不確定要素が多い開発事業を推進するためには、互いに「のりしろ」を出し合って、さらには自分以外のチームメンバーに、気軽に声を掛け合えること、つまり「つっ込む隙を与えること=ボケ」と、必要があれば、自分から他人の業務に対して「つっ込む=ツッコミ」の両方ができる人間関係を、普段から構築しておくことが大切なのである。

このように、開発コンサルタントは専門家ではあるが、決して個人技だけの「職人」ではないし、かりに「職人」であったとしても、チームとして「協調」することができることが、必須の要件となってくる。個人としての「技の磨き方」や「協調性」のつくり方については、ここではふれられない。

しかし、開発援助の仕事の中で必然的に生ずる「隙間」に対して、開発コンサルタントは意識的に自分の能力に「のりしろ」を作っておき、他の専門家との間で「ボケとツッコミ」により、この「隙間」をカバーして、チームとして「協調」して与えられた課題に対処する専門家集団が「開発コンサルタント」であるということを理解していただけたらさいわいである。

この回は、特に「開発コンサルタント」に求められるマインドセットに焦点を当てたが、基本的にはグローバルキャリアを目指すものは、「世界に通用する」専門家となることを考えている人だと思う。どのような職種であれ、日本とは全く違った国の社会環境の中で、おそらく日本人が数人しかいない中で働くという、あなたが置かれた「立ち位置」を考えれば、このアドバイスはある程度、普遍的に通用する重要なものであると考える。海外で働く「マインドセット」のひとつとして参考にしてほしい。

全5回 この項 了

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2020年5月 5日 (火)

【グローバル人材のマインドセット④】その4「なになにで「なければならない」ことはない、しかし「あるべき」理想はもってもよい」

これまた、禅問答のような言葉である。今回も二つの言葉がセットとなっているが、これには深いわけがある。

世界で仕事をする場合、いや単純に海外旅行に行った時でさえ、われわれ日本人とかの国の人たちとの間での考え方や習慣の違いに驚かされることが多い。実は、「われわれ日本人」といったが、本来、ひとりひとり違った存在であるので、同じ「日本人」だとくくるのも、かなり大胆かつ大雑把なことであるが、海外で、明らかに見てくれが違っていたり、あるいは微妙に感覚が違う人たちと接すると、結局、自分たち日本人の同質性に気づかされることが多い。

日本人論については、おそらく明治時代以来、何万と書かれ、いや個人的な口頭でのシェアリングをふくめれば、あまたの日本人論、外国人論が語られてきたと思うが、実は、今でもわれわれが想像もしないことが現実にありうる。テレビ番組が始まってから、外国文化紹介のドキュメンタリーやクイズ番組、さらにはバラエティ番組がいくどとなく、とぎれることなく人気番組として高視聴率を呈しているのはわたしが言うまでもないことである。

さて、開発援助に携わるわたしの仲間との会話においても、この「どこどこの国で、こんな信じられない体験や経験をした」というのは定番中の定番である。つまり、観光旅行では決していかない(いけない)地域や、仕事で現場にどっぷりと滞在したり、なんらかの事業を現地のひとたちと共同でおこなおうとすると、思いもよらない人間としての反応に出会うことがある。

もちろん、その地域の自然環境と人びとの営みに驚くことも多いが、本当にびっくりするのが、考え方や価値観にわれかれの違いと差を感じるときである。すぐに実例は出せないが、久しぶりに援助関係者が出会ったときの最大の話題が、「わたし今までかなりの価値観にふれてきたけど、こんなこと初めてだった」という自分の「常識外のこと」にふれた、素直な驚きと感動であったりする。

そこで、標題に戻ると、結局、海外でわけのわからないものに接すれば接するほど、果たして「絶対の真理」なんかあるのだろうかと自分が「常識」だとしてきたことが疑わしくなってくる。さらにいえば、自分が立っている足元そのものがグラグラしてきた感覚とでも言おうか。「絶対ということは絶対にない」という言葉があるくらいであるが、結局、開発援助の現場で求められるのは、「最適解」であり、絶対的な解ではないし、さらにいえば、その最適解が「正しいかどうか」は実はあまり関係ないことも多い。

つまり、その場にいるみなが納得できるかどうかである。これは、ワークショップやファシリテーションで、表面的に場をまとめるという低レベルまではいわないが、テクニカルな問題では全くない。わたしが、「地域開発と参加」にこだわって研究と実践をしているのは、まさに、その現場にいる人たちにとって何が一番に望ましいのかに近づこうとをしているからに他ならない。

わたしは、フィールドワーク、ワークショップ、ファシリテーションのあり方や実践方法について、かなりこだわっている。そのあり方やメカニズムについても、自分なりの考え方やモデルを提示したいと思っている。しかし、それが簡単なものでないことは、上記からもうかがえると思う。したがって、今の時点で、マインドセットとして伝えたいのは、自分の常識を当たり前だと思わないこと、いくら自分と異なる他者にあったとしても、なにか正しい答えがあって「なになにでなければならない」と決して思わないこと。この点だけを強調しておく。

ちなみに、蛇足ではあるが、わたしは、これが「正しい」なになにであるというタイトルで本を書く人の気が知れない。それは、あなたがそう思うのであって、特に長く論争の続いているいろいろな意見や実践のある分野に関しては、それらあまたの論者の先達への敬意と、いくらいろいろな人がチャレンジしても思うように「正しく」あるいは望ましく変わっていない現状があるという事実に対しての謙虚さがあってしかるべきであろう。

つまり、このマインドセットの一番最初にのべた「ありのままに現実をとらえる」ことが必要となってくるのである。

そして「あるべき理想」はもってもいいというのは、いままでのべてきたことと、矛盾するようであるが、これは、それを自分として持っていてもいいが、人に押し付けたり強要するものではないということである。自分自身、振り返ると若い頃は、かなり理想主義者で、宝塚ではないが、「清く正しく美しく」かくあるべしという自分なりの想いが全面にでたことが多々あった。しかし、現実は、そんな青二才の甘い理想論だけではビクともしなかった。

開発コンサルタントでも営業やバックヤードの仕事に深くかかわったので、結局、ものごとを動かすには、清濁併せ呑んだうえで、かなり策略的にピンポイントで痛点をおさなければならないことも学んだ。つまり、きれいごとだけでは、世の中動かないし、動くわけもないのである。

以前といっても15年ほど前になるが、開発コンサルタント仲間で、「蓋然性って大事だよね」という話になった。偶然でもなく必然でもなく蓋然性なのである。「偶然は必然」という言葉があるが、それとは別に、蓋然という言葉の意味するところは深く、ある程度、予想がつくということと、コントロールする可能性もあるというところが、偶然とも必然とも違う。

似たようで異なる「恣意的」という言葉もまた重要である。世の中、善意や悪意だけではない「恣意」というものがある。結局、蓋然性と一緒で、恣意という言葉があるということは、人間は感情の動物で、自分の例えば、善意や悪意とかの意識だけではコントロールできない何ものかの感情があるということである。この思い付きというか気まぐれが、とんでもない事件を起こすことは、古今東西をみて常にあったことで、あらためて、わたしが言うまでもない。

つまり、この項の結論は、第1項でのべたように「現実をありのまま」にみて、「なになにでなければならない」という自分だけの思い込みから放たれること、しかしそれは自分の「あるべき理想」を手放すわけではなく、現地の人が納得できる「最適解」あるいは「次善の策」を求めること。可能であれば、みなで一緒に考えること、ここまでが最低限、開発コンサルタントとして求められていることである。

その上級編として、自分の理想に近づけるためには、蓋然性を装いながら裏から手をまわすということをしたりもする。でも、浅いレベルの策略は大体うまくいかないのが常でもある。つまり、あってほしい理想と、なかなかそうはならない現実との間で悶々とするのが、結局、開発コンサルタントの楽しさでもあるのだろう。

今までのべてきた言葉の背景にあるリアルな話は、守秘義務などで簡単には表に出せない。しかし、国際共創塾の講義の中では必要に応じて、適宜、ふれたいと思っている。

この項 了

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2020年5月 3日 (日)

【グローバル人材のマインドセット③】その3「違和感を大切にすること。Don't think, feel!」

今回の講座も、全5回ということで書き始めたが、実は、最初から5つのテーマを選んで書き始めたわけではない。なので、第2回目も、「言葉」と「宗教」というふたつの要素が入り込んでしまった。

しかし、そもそも「グローバル人材に求められるもの」とかいうテーマでは、それこそ、有名無名の多くの先達がすでにのべていることでもあるので、わたしは、わたしなりの直感で書き進めてもよいと考える。ちなみに、わたしが共感できる、先達の言葉は補論で紹介する予定である。

さて、今回、「違和感」という言葉をとり上げた。そして、かのブルース・リーの「考えるな、感じろ」という言葉をそえさせていただいた。つまり、ロジック(論理)だけではなく、自分のフィール(感覚)を大事にしてほしいという思いを込めている。

わたしは、国際協力や日本のまちづくりに30年近くかかわってきているが、これらのフィールドにおいて活躍しているリーダーのみなさんは、ほぼ間違いなくわたしがいうところの「開発コンサルタント」の機能を果たしていると思われる。そして、ほぼ間違いなく「開発コンサルタントは世界で一番勉強している人たち」のカテゴリーに入ると思う。

これは学歴うんぬんではなく、どのようなスタート地点であったとしても、常に学び続けていること、わたしは、そのこと自体に、その尊さを感じている。実は、地域づくりのリーダーたちは、高学歴とか家柄とかで評価されているのではなく、全然違う、いわば「ひととなり」というところで、まわりから認められている。いわゆる「人物」は、老若男女とは関係なく、どんな辺境地にでも、どのような組織にもいるのである。これらの人たちは、必ずしも「開発コンサルタント」ではないかもしれないが、そのマインドを持っており、不断に勉強や学びを続けているという点では同様であるといえる。

ところで、昨日、2000年に東京のシャプラニールという国際協力NGOがおこなった「NGOカレッジ 参加型開発とわたしたち」の受講生の20周年のズーム会議があって半数近くのメンバーで話をする機会があった。自己紹介というかたちで20年をふりかえる中で、講師を務めた定松栄一さん、受講生のみなさん、それぞれ立場も役割も時代によって変わっており、職場が変わった人も多かった。しかし、わたしが思ったのは、基本的にみなさん本質的なところは変わっていないということと、それぞれの現場現場での学びが、今のその人を形づくっていることを改めて感じた。

しかも、みな20年前よりグレードアップしているように感じた。人生100年時代といえども、明日、いやたったこの今に何が起こるかわからない。確かに常に気を張って「世界と戦い続ける」のはしんどいかもしれないが、やはり少しづつでも前進している人は、みていてすがすがしいものを感じる。

そこで、重要になるのが、人生や世界は「論理(ロジック)」だけでは動いていないということ。わたし自身、社会開発の開発コンサルタントとして、いわゆる経営学的なマネジメントやリーダーシップ論、組織論は、ビジネス書から専門書まで、それなりに研究している。ただ、どうにも違和感を感じることがおおい。

では、その「違和感」の根源はなにか。それは端的に、一言でいうと、その「論理(ロジック)」と生身の生き物としての人間の「感情(フィール)」との乖離である。乖離というと大げさな気がするが、「頭でわかってても体が動かない」ということって実は何気にありませんか。

ただ、その身体感覚、あるいは、個々人のとある「体験」や「体感」あるいは「経験」だけでは、それ以外の課題や問題は解決することができない。そこで抽象化がおこなわれ概念として「論理(ロジック)」が組み立てられてきた。その面では、「論理(ロジック)」は、あまたの個別の体験や経験を抽出したエッセンスそのものであるともいえよう。

しかし、「論理(ロジック)」から入ると、特に経験がない人は、個別の「体験」や「経験」に還元することができない。これは、ツール(道具)そのものが持つパラドクスとも同様といえよう。つまり、ツール(道具)はそもそも「特定の目的」のために最適化された。しかし、一旦、ツールとして成立してしまうと、発端となった「特定の目的」とは別の用途で使うことができる。これは、わかっていてわざと転用する場合と、勘違いというか知らなくてとりあえず使ってみたら役にたったという少なくともふたつのケースが考えられる。

いずれにせよ、ツール(道具)は、それが役に立っている限りは問題がないといえる。ところが、「論理(ロジック)」が、人間に適用されると何が起こるのか。まず、人間は、機械やロボットなどの、いわゆるモノではない。しかも、人間は感情を持つ生き物であるから、さきにのべたように原理的に、あるいは論理的に正しいと頭ではわかっていても、そのとおりに行動するとは限らない。

その「感情の動物である人間」を動かすために、心理学などの科学がさらに開発されたりするわけであるが、いくら科学や技術が発達したとしても完全に「論理(ロジック)」による人間の支配やコントロールは不可能である。

でもなぜそれでも、「開発コンサルタント」は学び続けるのか。それは、人間理解にこそ、学びや勉強が必要だからである。「感情(フィーリング)」を前面に押し出した時点で、それは宗教とか洗脳とか非科学的なものになってしまう。確かに、だまされる人もいるかもしれない。しかし、そんなだまされた人たちをみるのも、あるいは逆に、自分がそんなインチキで人をだまして仮に何かを成したとしても、それはおもしろいことだろうか。

少なくとも、「開発コンサルタント」は、そのようなインチキや、ヲタク用語でいえばチートを使うべきではない、とわたしは考える。むろん、物事の裏も表もみた上で、いわゆる「寝技」も使えるのが「開発コンサルタント」である。しかし、それは最後の最後の手段であって、基本は王道で正面から突破するのがあるべき姿であると思う。

この王道を説くのも難しいし、裏技はさらに難しい。「開発コンサルタント」を紹介する本や断片的な情報はあっても、これがそうだというような秘伝の書があるわけではない。仮にあったとしても、ちゃんと口伝えで教わらないと、文字だけではその内容をとても伝えきれない。

結局、「感情(フィール)」が大切なことを指摘しつつも、その詳細や実態について、文字では説明しきれなかった。ただ、自分の感覚、特に人や場に際して感じる「違和感」みたいなところに着目してほしい。人間の直感や感覚が正しいことは近年の研究でもどんどん明らかになっている。とりあえず、「論理(ロジック)」や他人の評価や感覚ではなく、自分の心や体が感じる「違和感」に気がついたら、なぜ、そのように感じたのかを、一度、立ち止まって考えてほしい。案外、その直感はあたっていることが多い。

自分自身、開発途上国で農民や住民相手のワークショップやファシリテーションを、いろいろ経験させていただいたが、そのちょっとした「違和感」が、隠されていた問題や課題をみつけるヒントになったことが多々あった。もちろん、開発途上国のローカルな状況は、自分だけではわからないことばかりなので、カウンターパートとか現地で一緒に仕事をしている仲間に、自分が感じた「違和感」について質問するのである。

この項では、自分がもった「違和感」を大切に、「論理(ロジック)」も活用して最適解に近づこうということをのべた。「論理(ロジック)」を否定しているわけではなく、また、「感覚(フィール)」がすべてというわけでもない。もちろん、両方とも大事であるが、開発途上国の現場では、「論理(ロジック)」だけで動くことはまずなく、「感覚(フィール)」への配慮が必要なこと。それを知るためには、自分の「違和感」という人間としての感情に素直に向き合ったほうがよいことを確認した。

この項 了

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2020年5月 2日 (土)

【グローバル人材のマインドセット②】その2「言葉と宗教に関心をもつこと」

この記事を書くにあたって、2000年8月15日にみずからが書いた、こちらの記事を参考にさせていただいた。

開発教育のめざすものとは? しばやん@開発教育全国研究大会 2000年8月15日

これは、開発教育全国研究大会に、友人の紹介で参加したときに思って書いたことなので、厳密には「グローバルキャリア」そのものを意識したことではないが、大阪外国語大学(現大阪大学外国語学部)アラビア語専攻の卒業のわたしならではの意見としてきいていただきたい。

先のリンク先から引用させていただく。

「(前略)全体会 ; 「開発教育・20世紀から21世紀へ」

 さて、この全体討議のセッションでは、100数名の参加者が5名ずつのグループに分かれて、意見をとりまとめた。その中で、「これからの開発教育をどうしたいか」という設問があり、私は以下のように書き出した。

・ ありのままの世界を、それぞれの立場で伝えること。(台所や町工場や八百屋も世界につながっている。)

あくまで、半分しか参加できなかった上での話だが、とても面白い設問だと思ったので、上記テーマについて引き続きもう少し考えてみた。

 まず、開発教育の行方ということを考えると、「何」がその目標として浮かび上がってくるであろうか。個人的な考えだが、その開発教育の目的とは、「われわれ」自身の「地球市民」としての意識を高めることではないか。私が考える3つの鍵は以下のとおりである。

① 自分をも含めた「地域」への関心をもつこと。

② 英語以外にアジアかアフリカ(中南米でもいい)の言葉に関心をもつこと。(途上国へ接するためのフランス語やスペイン語もありうるが、基本的にはもっとローカルな言葉が望ましい。)

③ 宗教に関して自然体で接することができること。(下記リンクを参照)

剣を取る者はみな剣で滅びる(マタイ26-52)映画“パッション(キリストの受難)”をみて。 2004年5月24日 加筆

<読書案内(キリスト教および‘力’をより深く理解するために> 2004年5月24日 加筆

それぞれに結構大きなテーマであるので、引き続き、この「歩きながら考える」等で考えていきたい。(後略)」

ここにあるように、国際共創塾がこだわっている「地域」、「言葉」、「宗教」という言葉がすでに20年前の時点で揃っていることに、これを書いた本人であるわたし自身が驚いている。

ともあれ、グローバルキャリアを目指す人は、「言葉」と「宗教」に関して、常にアンテナを張るようにしていただきたい。実は、それぞれの重要性を裏付ける細かいエピソードが山ほどもある。事実、それらのエピソードは、わたしのホームページやブログにおいても幾度となく紹介している。したがって、ここでは、その重要性を指摘するのにとどめたい。

<参考>

しばやんの開発学のバックにあるものは何かについては、こちらを参照のこと。

開発学のキーワード ブックリスト 

これはあくまで2007年4月9日 現在のもので、その後、興味や関心もかわっており、その都度、新しいブックリストを作っている。例えば、こちらなど。

「4.関連書籍リスト」開発民俗学への途・・・共有編

2013年9月24日より綴っている「開発民俗学への途・・・共有編」の中のブックリスト。これまた進化の途中ですが、ご参考まで。

宗教に関するまとまったわたしの考え方というかアプローチは、こちらを参照のこと。このような勉強の仕方をしました。

『アラブ・イスラーム学習ガイド 資料検索の初歩』(©1991) 電子ファイル版©2000.May.5

しばやんの記念すべき、大学4年生の時に出した自費出版の学習ガイド。たぶんわたしの強みは、自分が学んだことの結果や答えを示すというより答えを導き出すためのパンくずというかプロセスを可視化することができること。このガイドをみれば、きっと自分もできると自信をもっていただけると思います。ちなみに、このリンクは、慶応義塾大学の研究者のホームページでもリソースの一つとして紹介されており、わたしは全く知りませんでしたが、アラビア語やイスラームを学ぶ(一部の?)学生さんに読んでいただいていたようです。

この項 了

 

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2020年4月27日 (月)

【グローバル人材のマインドセット①】その1「ありのままに現実をとらえる」

今回は、グローバルキャリア形成において、もっとも重要だと思われる考え方=マインドセットについて、国際共創塾の考え方を5回にわたって紹介する。

まず、なぜ「考え方」としたのか。実は、このような重要事項について「資質」や「素質」と表記している先行研究があるのは事実である。しかし、資質や素質としてしまうことに、わたしは抵抗感がある。例えば、グローバル人材になるには、かくかくしかじかの「素質」や「資質」が必要であると、上から目線でいわれたときに、あなたはどう思うであろうか。

少なくとも、いい気持ちはしないであろう。「素質」や「資質」がない「わたし」はグローバル人材になれないのかとか、きっと反感と絶望を感じることであろう。たとえ、「素質」や「資質」が自己啓発によって変えられるものだとしても、普通は、そのようにいわれた時点で、簡単には変えられない「天性の素質や資質」だと考えてしまう。

したがって、本稿では、「考え方」あるいは「マインドセット」という心構え的なものとして話をすすめたい。

■マインドセットその1: ありのままに現実をとらえる

今、国際共創塾で、すべての方にお伝えしているのが開発援助業界の構図、あるいは宇宙船地球号の国民国家体制の模式図である。ここでは、その詳細を説明することはできないが、そのときに伝えているのが、「世界は全然平等でもないし、いい人ばかりではない不平等で不合理なものである」というメッセージである。

開発コンサルタントは、わたしなりに一言でいれば、「国家元首からこじきまであらゆる階層の人にあって話して仕事をする」人である。海外には、映画やドラマで断片的に伝えられるよりはるかに不条理なひどいことが存在する。わたしも、そのような「現場」に好むと好まざるとかかわらざるをえないことがあった。

その悲惨な先進国のわれわれの想像を絶する場面に接した時に、憤りや社会正義をさけびたくなることは当然のこととしてある。スーパーパワーを持つヒーローとなって正義の鉄槌を下したくなることもあるだろう。確かに、政府の仕事をしていれば、開発コンサルタントに限らず、青年海外協力隊(現JICA協力隊)であっても、相手国の政府や現場の住民にとって、「スーパーパワー」であることは事実である。

しかし、わたしは、それはそれとして「ありのままに現実をとらえ」たうえで、自分に何ができるのか、今は何もできなくても、次にはどうしたらよいのかを考えるために一旦「引き取る」ことをみなさんにお勧めしている。

クールに熱くという言葉がある。緒方貞子さんの言葉だという若い人がいたが、わたしは信じない。実は、これは現場ではある意味当たり前の言葉であり、どこで誰から聞くのかのほうが重要であるからだ。本に書かれた言葉を引用しているだけでは、本当に身についたものとならない。

わたしは、ある国で政府の仕事で日本政府と相手国政府の交渉過程で考え方の違いによって、事業が硬直してしまった現場に調査団の業務調整団員として立ち会ったことがある。そのとき、隣国に別の仕事できていた営業部長の取締役が急遽、予定を変更して乗り込んできて、実に見事に問題を解決したことがあった。そのときに、ふたりで祝杯をあげたときに、その取締役から、「あたまがちんちんしていたら(仕事が)うまくいかないだろう。(あたまを指して)クールに(胸をさして)熱くだ」とビールを飲みながらジェスチャーをしながら語られたことを思い出す。

実は、この取締役は東京における直属の上司だったので、他の調査団員とは別に、ふたりでさしで、この一件の振り返りと祝杯をあげていたのだが、海外においては、いくら自分で騒いでバタバタしても「どうしようもない」ことが実に多い。

だからこそ、せめて自分の目の前の現実を「ありのままにとらえる」冷静さと、その経験を一過性のものとしてではなく、次に生かしていくだけのしぶとさというか執念が必要となってくるのである。

この項 了

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